「メシ」はどこだ!
第1話
師走の陽が優しげな顔を見せる午後。優子は山手線を日暮里で降りて一番端のホームの京成線に乗り換える。特急や快速では無く各駅停車に乗る。そこから四つ目の駅「関屋」で降りる。駅の横は堤通が通り、最近まで大きな工場が立ち並んでいたので都内なのに殺風景な光景が広がる。
駅の向かいはやはり駅だ。東武線の牛田と言う駅があるのだ。関屋と牛田の間には細い道が横たわっているだけだが、この両駅は一緒になる気は無いらしい。戦前からずっとこのままで利用者の事など考えないだろう。
私鉄の駅が並んでいるからにはさぞ駅の周りは繁盛しているだろうと思いきや、コンビニとハンバーガーチェーンの店があるだけ。やや離れた場所に魚屋がぽつんと開いているのみなのだ。
その両駅の間の道を荒川方面に歩いて行くと、湾曲している東武線の下をくぐるようになる。軒下1.3メートルなどと書かれたガードを頭を下げながら通り過ぎると土手に出る。手前はブンブンと車が北千住に向けて走って行く道がある。目の前は荒川の土手だ。かって教師ドラマで散々撮影に出た場所でもある。
そんな道沿いに目的の店はあった。うらぶれた食堂で軒先の上の看板は白いペンキで塗られ、そこに黒々と「食堂 牛島」と書かれていた。師走の風が通り抜ける道に立って、その人物は暖簾が掛かっている事を確認する。
食堂によってはランチタイムが終わると休憩にはいってしまう所もあるからだ。磨りガラスの入った木製の引き戸に手を掛け開くと、店の奥から男の声で
「いらっしゃい」
と声がかかった。
「あのう、食事をしに来た訳では無いのですが」
鴇色(ときいろ)とも言うややくすんだピンクのツーピースを着た優子は戸惑いの表情を浮かべた。
「何か用事ですか」
店のカウンターの奥の調理場から男の声だけが店に響いた。少し時間が経って目が慣れると男の顔も見えて来た。
歳の頃は四十前後。頭は短髪で手ぬぐいで鉢巻をしている。顔の輪郭は四角で下駄を思わせた。そのくせ顔の真ん中に鼻が胡座をかいている。目は細いとか大きいとか言うのでは無く全体的に小さかった。ひと目見れば忘れない顔だった。
「あのう、こちらは、食べ物の相談に乗って戴けると伺って来たのですが」
「ああ、食事の相談や嗜好の改善とか、味覚障害の改善なんてのなら相談に乗っていますがね」
調理場の中の男はカウンターをくぐって店の中に出て来た。カウンターに五席。店には四人がけのテーブルが三つあるだけの狭い店だった。擦りガラスを通して土手の上から冬の陽が店に注いでいた。土手の向こうは東だからおかしいと思ったが、よく見ると土手に立てられたミラーに太陽が反射していたのだった。
「どんな相談ですか? まお座りなさい。座ってから話を伺いましょう。私はこの店の主の牛島泰造です」
牛島泰造はそう言って店のテーブルの一つの椅子に腰掛けた。だが優子は座ろうとはしなかった。
「実は父を探して欲しいのです」
泰造はこの娘が勘違いしているのだと思った。
「私は人探しはやりません。そんな事はしたことも無い。それなら警察か探偵社に行けば良いでしょう。お帰り下さい」
そう言って席を立った時だった。
「わたし、『花村』の娘の優子です」
それを耳にした途端、泰造の表情が変わった。
「娘って……あの末の娘さん? 最期に見たのは未だ赤ん坊だった。道理で判らないはずだ」
「実は父が一週間前から行方不明なんです。警察にも届けは出しましたが。あてにならないので、誰か頼りになる人を探していたんです。そうしたら牛島さんなら相談に乗ってくれると言う人がいまして……」
料亭『花村』は泰造が最初に修行をして店で、何も判らなかった泰造に料理のいろはを仕込んだのは優子の父親の花村雅也だった。言わば泰造の恩人でもあった。
その後泰造は修行を終えると次々と一流料亭を渡り歩き、最期は銀座でも一番と言われる『銀星』の花板になったのだった。
それが、数年前に急に店を辞め、この場末に廃店になった食堂を居抜きで買い取って店を始めたのだった。
後にそれは一人娘の摂食障害を直す為だったと知れる。それが判ってからも泰造はどんなに請われても表舞台に復帰することは無かった。
「親父さんが行方知れずって何があったのですか?」
立ちかけた椅子を元に戻して座り直す。花村優子も泰造の前に座った。
「はい、一週間ほど前なんですが、父の所に電話がかかって来まして、それに出た父が『ちょっと出て来る。すぐに帰るから心配しないように』って言って出て行ったのですが、それきりなんです。だから心配で心配で……まさかとは思うのですが父の身に何か良くない事でもあったのかと思うのです」
花村優子はそう言って暗い目をした。泰造は立ち上がって店のカウンターでお茶を入れると優子の前に出した。
「何もありませんが」
「あ、どうぞお構いなく」
雲を掴むような話だった。今の情報だけでは何も判らないと泰造は思った。
「何か気がついた事は他にありませんか?」
泰造の言葉に優子は暫く考えていたが
「そう言えば市場から良く電話が掛かって来ていました。仕入れの注文先とは違う店からでした。それが普段とは違う事でした」
市場(かし)の仕入れる店は変えないのが普通だ。長年の付き合いで信頼関係を築くのだ大事だからだ。安いからと言って無夜間みに変えはしない。それが市場のルールでもあった。
「それは何処の店ですか?」
『花村』の仕入先なら泰造も知っている。今も泰造が居た頃と変わってはいないはずだった。
「はい、何でも村上と言っていました」
「築地の『村上』ですか?」
「多分そうだと思います」
『村上』は鮪問屋である。生の大間産からイタリアの地中海産の養殖まで取り扱う。無論冷凍も扱うのは言う間でも無い。一方『花村』が鮪を仕入れるのは『三上』と言ってこれも手広く商売をしている店である。築地の他に千住や柏、それに松戸にも店を持っていて、仕入れる量が多いので品質が同じなら『村上』よりも安く仕入れられるのだった。
「最近『村上』と付き合いがあるんですか?」
泰造の質問に優子は
「いいえ、多分仕入れた事は無いと思います。伝票も見た事がありません」
「そうですか、まあ狭い市場の中ですから親父さんなら顔が広いですから、色々な相談を受けるとは思いますがねえ……何か良からぬ相談だったのでしょうね」
市場の中は思ったより誘惑が多い。仕入れ担当者が経営者とは違う場合、店は平気で伝票に下駄を履かせるのだ。下駄とは請求額を水増しして出すのだ。その差額が仕入れ担当者の懐に入る寸法である。勝手は平然と何処でも行われていた行為である。
「やはり父は……何かに巻き込まれたのでしょうか?」
暗い表情の優子に泰造は
「まあ、恐らくは……」
「何とかお願い出来ないでしょうか?」
泰造は困っていた。問題が大事になりそうだったからだ。だがこれは市場と言うシステムを良く知っている者で無ければ全く解決出来ないし花村を見つける事すら出来ないと考えた。
「店の事もありますから、今日一日だけ考えさせて下さい」
泰造はそう言って携帯電話の番号を優子と交換して、明日必ず連絡をすると約束したのだった。