ひこうき雲
「鳥居さん、いいパパが似合いそう、幸せなんだろうなー。ザキさんは?」
「ザキって、」
やっぱ俺の事なんだろうな、
今度は、
ー逃げずに答えよう。ー
何てったって公子にあんな思いをさせちまったんだ。
「そう、カ・キ・ザ・キさん。」
あらかた寿司を食べた公子が両手で頬杖をして俺の目を覗き込む。
「ザキって、まあ、いいか、俺は幸せだよ。部分的には。」
「部分的って、意味しーん。」
なんか、喋り方が変になってきたんじゃないか?
「子供達も息子が大学4年で娘が短大だ、この先、進路楽しみや心配もあるけど、ひと段落したって感じだからね。」
「ふーん。」
ガラスが触れ合う音をたてて手酌する公子、動作が雑になってきている。お茶でも頼んだ方がいいな。もちろん俺は公子に勺してやるのを止めている。
「あたしが聞いてるのは、子供の事じゃなくて、」
ふた口ほど冷酒を飲み込んだ公子が挑むような瞳を向ける。
「そりゃあ長年一緒にいればいろいろあるさ。」
「いろいろって?」
自然と右手が杯を弄ぶ、底に残った冷酒が縁からはみ出さないように螺旋を描く。それを目で追うことで公子の視線から逃れる俺。何を聴きたいんだ。この小娘は。だいたい口の利き方がおかしくなってきたぞ。日本酒なんて止めておけばよかったんだ。昔のように公子をガキ扱いすることで首を上げようとするもう一人の俺を押さえる。
「例えば?」
「例えば、あれだよ。その」
例えば?と聞かれて反射的に応じてしまった俺の目を公子の瞳が捉える。
挑戦的な笑みが絡みつく。ように俺には見える。よくあるオッサンの勘違いだろうけど。もういいや、言っちまえ。
「今流行りの何とかレスってやつだよ。俺はまだまだなのに。」
言っちまった。
「やっぱそうなんだー。だから家に帰らないんですかぁ?」
公子が目を細め、頬杖から斜めに俺を見上げる。
-コイツこんな瞳もするんだ。-
妙に艶っぽい視線に俺の奥の懐かしい何かが湧き起こる。勘違いでもいいや。
何となくだが胸のつかえが溶けていき、日頃から渦巻いていたイライラが晴れてくる。
男として恥ずかしいし、情けない話だが、誰かに聞いて欲しかったんだ。
-お俺はまだ男でありたい。-
という叫びを。
「でもね。奥さんの気持ちも分かるかも。」
-ガクッ-あえて音で表現するなら。これだ。
盛り上がって来た全ての俺が崩れ去る。
「なんで?」
情けない。動揺を悟られずに言える最大限の言葉がコレだ。
「だって、開発の人って、毎晩遅くまで残業して帰って来るわけでしょ。殆ど午前様。それなのに朝も普通の時間に出掛けてく。」
「そんな時間まで待っる、って訳にはいかないもんなー。」
確かに。そんな生活してたら共倒れだ。
「そうじゃなくて、ザキさんは表面しか見てないんだから。」
既に艶っぽい視線はない公子。今度は娘の美咲のような目をしている。
-分かってないなー、お父さんは。-
って言う時の目だ。
「だって、毎日寿命を擦り減らしに会社に行ってるようなもんでしょ。当たり前だけど仕事は手伝ってあげられないし、技術屋の話しなんかチンプンカンプン。仕事には何のアドバイスもできない。
出来るのは生活面のサポートだけ、しかも殆ど家にいないんだから、してあげられることは限られてる。美味しくて健康に良い食事を作って、家ではなるべく休んで貰えるように家事をしっかりやることぐらい。毎日一生懸命尽くしても夫の体と心は会社に行くたびに壊されていく。違う?」
公子が熱っぽくまくし立てる。冷酒に潰れそうになっていたのが嘘のようだ。
「まあ、そうだな。」
不本意だが、的を得ている。しかし結婚もしてないコイツに何が分かる?
「でしょ。だーから、そんなコト出来ないのよ。ただでさえ旦那が死にそうなのに、そんな寿命を縮めるようなコト出来るわけないでしょ。」
どんなに遅く帰っても、料理を準備出来るようにリビングで居眠りしながら待っている妻。毎日早起きして欠かさず作ってくれた手作り弁当。ひと工夫加えた手料理。アレは拒否するけど何故か手を繋いでくる妻。
俺の脳裏に走馬灯が流れる。
-そうだったのか。-
「お父さんの馬鹿。」
あの晩の娘の怒った声が木霊する。妻に転勤を告げた深夜のダイニング。
「馬鹿だから馬鹿って言ってるのよ!お母さんのこと何も知らないくせに。」
-そうだ、お父さんが馬鹿だったんだ。-
やっと気付いた。なんとかレスの事だけじゃない。俺は、自分の事だけしか考えていなかった。夫として、父親として、どんな役割があって、それをどう果たさなければ。を常に考えながら行動してきたつもりだった。しかし心の底から「相手のため」を思って行動してきたのだろうか?妻のように親身になって尽くしてきたのだろうか。それは上辺だけだったのかもしれない。だから、こんなことに悩み、ストレスを感じてきたのだ。
-俺だって~なのに-
喜ぶ家族の笑顔の裏で、心の中でそう叫んでいた。
いつも自分を犠牲にしている。と思い込んでいたのではないか?尽くすことは犠牲ではない。客観的に犠牲だと思えることでも、それは犠牲ではない。それは尽くすことではないし、思い遣りでもない。それなのに、ストレスにかまけて煙草を吸いまくり、そして毎晩のように大酒を飲んだ。まるで妻への当てつけのように体に悪い事をしていた俺。いつからこんな感情を持つようになってしまったのだろうか。
「それにしても、良く分かるなー。お前。」
-結婚もしてない癖に-という言葉は慌てて飲み込む。
「だって、死んじゃったんだもん。あたしの彼。お互い結婚するつもりだったのに。東北支社にいた時の取引先にいたエンジニア。昔のザキさんと同じでいつも深夜残業だった。仕事帰りに道端で倒れてたみたいで、死因は心筋梗塞だったんだって。深夜だったから発見が遅れて。精神的にもヤバかったみたいで、死んだ後、彼の両親と部屋の片付けに行ったら鬱の薬も出てきた。
結婚したらあたしが健康にしてあげる。って言ってたのに、あたし、結局何も出来なかったんだ。」
嗚咽が混じり始めた時には俯いた頬が涙で濡れ、テーブルの上で握りしめた拳が悔しそうに震える。
「だから、もうエンジニアとは付き合わない。って決めたの。ザキさんには悪いけど開発のみんなは遠慮しとくわ。」
顔を上げて笑う。涙を蓄えて潤んだ大きな瞳だけが泣いている。
「了解。」
俺も笑った。それ以上掛ける言葉が見つからない俺の目も潤んでいるに違いない。
公子に辛い昔を思い出させてはしまったが、何だか清々した。
勘違いのオッサンは脆くも崩れ去ったが、忘れていた大切な事に気付くことができた。
明日は家に帰ろう。
-ありがとう-
誰にともなく心の中で呟いた。