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ひこうき雲

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 そう。今はムキになる時ではない。そもそも俺がコイツ等にとって目の上の「たんこぶ」なのだから。俺はまだ「開発の人間」としてコイツ等の目に映っている。それでいい。開発、設計、いや工場全体の代弁者だと思ってくれていい。そんな「工場の奴ら」である俺が、お前達と信頼関係を築けた時、素晴らしい組織への第一歩になる。
 荒井部長が言っていた。あの言葉
(部門間でいがみ合っている時代じゃないし、そんな余裕はない。製品に対する思いを伝えて欲しい。)
それが目指す先にあるのは、そういう組織に違いない。俺だって営業の連中を軽蔑していたが、今はもうない。荒井部長の言葉が信念となって俺の心に宿っている。
 それはそうとして。
 結局業務内容の事は聞けなかったな。意味の分からない記号や流れがまだまだあるのに。
 電車の時間が気になりだした。もう行かなきゃな。もっと詳細な業務資料はないのだろうか、あるに違いない。営業畑一筋の社員なら新入社員の頃からメモしたものが財産になってるはずだ。諸岩にもらうか?いや、それは違うな、根を上げてると思われるかもしれない。頼るのはまだだ、これからもっと大きな事で頼るようになる。そうでなきゃいけない。
 今日は大阪だ。大阪には設立が昭和初期に遡る老舗の大手家電メーカーがある、そして時代の流れに翻弄されながら設立、合併、分割を繰り返してきた系列会社は、家電のみならずあらゆる種類の電気製品を手掛けている。その中でウチのインバータの地位を確固とし続けなければならない。
 今日も帰りは遅くなる。
 溜息をつきながら書類受けの束をデスクの正面に置いて、椅子に浅く座る。付箋を貼っておいたページをめくりながら判を押していく。昨夜目を通しておいたから闇雲に押している訳じゃあないんだけど、周りの人から見れば諸岩に言われたから、見もせずに判を押してるように見えるだろうな。でも今は時間がない。
 書類を課長の書類受けに置く、もちろん問題の書類には、「受電設備打合せ済み別途手配」とメモを付けた。
 自分のデスクを見回して椅子においていた鞄を手に取る。忘れていることはない。
 さあ行くぞ。
 行き先明示版に「出張」のマグネットを貼り、ホワイトボードマーカーで「大阪」とだけ書くと、早足で廊下に出た。エレベーターホールの手前で笑顔の挨拶とすれ違う。ハムちゃんだ。挨拶に答えながら足を早めようとした。
「出張ですか?」
 その声に立ち止まり振り返る。公子の大きな瞳が心配そうに俺の目をのぞき込んでいた。
「そう、大阪だ。」
「いつも夜遅いんじゃないですか?なんか、開発の時みたい。」
 あの頃も、実習生だった公子は帰り際に同じ様な目を向けていた。実習生に残業はさせられないし、そもそも残業するほど与える仕事もなかった。あの頃小動物ように愛らしいと思っていた新人営業社員は、大人びた女の仕草や表情をするようになっても瞳までは変わらなかったようだ。
 新人営業社員だった。
 そうだ、ハムちゃんに資料を借りればいい。
「ハムちゃん。頼みがあるんだが。」
「何でしょう?」
 公子の瞳から心配の陰りが消え、いつもの輝きが戻る。
「営業の仕事の資料を貸してくれないか?あれば、でいいけど、新人の頃のメモとかもあると助かるんだけど。正直、とにかく分からないことだらけなんだ。」
「ですよねー。今の柿崎さん、何か覇気が無いですもんね。私が実習してた頃の柿崎さん、輝いてたましたよ~。資料なんてお安い御用です。沢山もってきますから、また輝いて下さいね。でも、」
 照れて伸びそうになった鼻の下が引きしまる。
「でも?」
「高いですよー。あ、た、し。」
 何だ、ビックリさせやがって、
「お前じゃなくて、高いのはお前の資料だろ。」
「分かってないなー、相変わらずですね。」
 俺の目の奥を覗き込むように公子が顔を少し傾ける。まるで、そうすることで心の中を読めるとでも言いたげに。そらした俺の視線に公子の顔の動きに付いていけずに真下に下がった髪が朝日が透けて映る。
 心臓が大きく上下に動いたような感覚。切り返す言葉が浮かばない。ただ、目に映るものすべてが、そう、すべてが、
 やけに眩しい。
 (まだ俺にも)
 (とにかく)
 そう、とにかく。だ。
「とにかく、よろしく頼んだぞ。」
 作り笑いを浮かべ、それが変わらぬ内に速足で歩きだす。背中に絡みつくような視線を感じながら。 勘違いするな。と、いつも自分を戒めるもう一人の俺は、遂に出てこなかった。

作品名:ひこうき雲 作家名:篠塚飛樹