ひこうき雲
11.帰れる場所
6月に入り、今日から新たな生活が始まる。
俺は自宅での生活を惜しむようにJR常磐線の始発特急に乗った。自宅から2時間は掛かるが、どうしても妻の味噌汁を食べておきたかった。あるいは、朝「行ってきます。」を言って玄関を出たかった。ただそれだけかもしれない。ここ数日、無性に家族を恋しく思っていたのは事実だ。何故かは分からない。何となく不安になる。
ここのところ日常的に具合の悪い腹。長時間の移動は心配だったが、特急ならトイレが2両に1箇所ある。
明日からは寮生活だ。寮といっても、職場に近い訳ではない。松戸にある寮から秋葉原にある職場まで、電車で30分程度はかかるらしい。寮への荷物は先週運び込んでいたから今日は軽いビジネスバッグ1つだ。中身は手帳だけ、長年愛用してきた分厚いシステム手帳。。。もう難しい書類も図面も書かない。これだけで充分だ。
寮に運び込んだ荷物はノートPCと服、何度も読んで表紙に皺の入ってしまったお気に入りの飛行機の本。
そして新調したスーツたち。。。
量販店のスーツだが、「営業なんだから」と言って、サマースーツを3着一緒に選んでくれた妻の横顔が浮かんだ。
(昔はこうして一緒に服を選んで貰ったっけな)
嬉しそうでいて、どこか寂しそうで。。。いや、寂しそうに見えたのは「うがち過ぎ」か?
実家から帰って来たあの朝、、、そう、長男として生きてきた俺のこれまでの人生を「帳消しされた」あの日。。。
「どんな話だったの?」
インスタントコーヒーを作ってダイニングテーブルに座った俺の向かい側に妻が座る。
カップから顔を上げた俺の目に俺を真っ直ぐ見詰める妻の顔が映る。その後ろで少し開けた窓からの風がレースのカーテンを揺らし、その裾が妻の頬を掠めるが、妻は微動だにせず真っ直ぐに俺を見つめていた。間もなく昼を迎える日差しはいつもより眩しく感じた。
「お前には嬉しいことかもしれないが、、、」
そう前置きして俺は全てをぶちまけた。涙を見られたくない。妻を直視できない俺は、コーヒーカップに向かって実家では言えなかった恨みつらみを全部吐き出した。
「こんな結論にするなら、最初からそうしてくれれば良かったんだ。俺の人生なんだったんだ。。。」
そう締めくくったとき、右手が何かに包まれた感じがした。悔しさで痛いくらいに力を込めていた握り拳に優しさが広がる。そこに目を移すと俺の右手を妻の白くしなやかな両手が包んでいた。
(喜べよ。「長男の嫁」から解放されて良かったな)
ゆっくりと顔を上げた俺は、妻に向けて吐くはずだった毒を飲み込んだ。
「なんでお前が?」
俺を見つめる妻の目には涙が溢れ、頬には一条の涙が伝っていたからだ。
「あなたのしてきた苦労と後悔は知っている。だからその無念は痛いくらいに分かるわ。でも、、、でもね。。。あなたがそういう人生を歩んできたから、あなたと巡り合うことができて、子供たちも授かった。。。それだけは後悔しないでね。。。ごめんねこんな勝手な事言って。。。でも、あたし。。。だって、」
「後悔なんてするもんか。。。結果オーライだ。」
俺は泣き崩れた妻を抱きしめた。強く。。。俺の頬を涙が流れ落ちていき、妻の髪の毛に吸い込まれていった。まるで俺のすべてを吸い込んでくれているかのような優しい大地。。。今までこんなに近くにいて、この優しさに気付けなかったとは。。。夜相手にしてくれないとか、スカートはいてくれないとか、、、「男として扱ってくれてない。」なんて、俺はアイツを上辺だけで見ていたのかもしれない。
(勝手なのは俺のほうだったのかもしれない。。。だがな。。。)
夫婦である前に、父親・母親である前に「男と女」でありたい。という気持ちを俺は捨てることができないでいる。
俺は結局、、、今朝になっても妻に感謝の言葉を告げることもできずに家を出てきた。もう離れ離れだ。
俺は何がしたいんだ。。。夫としてどうありたいんだろう。。。
車窓に広がるのは梅雨の水の恵みを今か今かと待ちわびる青々とした緑の大地だった。水田に畑、目に入る全ての緑が眩しい。その奥に筑波山がその優美な三角を見せ始めると間もなく石岡駅に着く。
いつの日かこの駅から通勤するようになる。と思っていたが、そんな日は永遠に来ないことになった。
(いつまで引きずってんだ俺は。。。)
俺の自虐をホームの獅子頭まで蔑んでいるように見える。関東三大祭りが行われる石岡、獅子頭の数の多さは圧巻だ。もっとも、、、食いしん坊だった俺は、石岡の祖母が作ってくれる赤飯と御馳走の方が楽しみだったが。。。
石岡駅を出ると、水田と住宅街のコラボの中を走る。それを抜けると恋瀬川を渡る。俺の田舎から流れ来るその流れは、田舎で見るそれとは比べ物にならないくらい幅広い。そしてバックに見える筑波山もまた格別だ。
(次はいつ見られることやら。。。)
俺は、車窓を見つめ、筑波山を待つ。
「あれっ?ヒロちゃんじぇねーか。久しぶりだな。」
懐かしい声に通路を振り返る。そこには日焼けした丸い笑顔があった。幼馴染の井川則夫だ。
「おお、ノリちゃん。しばらくだな。そんなんパリッと着込んでどこ行くんだ?」
実家の自動車整備工場「カーメンテ井川」を継いだ井川のスーツ姿は、友人の結婚式以来だった。今は年に一回程度しか集まれなくなったが、昔は離れ離れになっていても2月に1度は飲み、遊んだ腐れ縁だ。田舎でつるむ腐れ縁の仲間はみんな長男だ。自動車整備工場を継いだ井川を始め、市役所に勤めている奴、JAに就職した奴、郵便局の職員になって近くで勤務できると思いきや、郵政民営化の煽りをもろに受けたせいか転勤が多かった。しかも茨城にしては人口密集地ばかりが勤務先、つまり田舎から通わざるおえないアイツにとっては遠いところばかりだ。今ではおおよそ通勤には厳しい片道50kmを毎日車で通っている。「ホント長男ばかりよく集まったもんだ。」というのが合言葉のようになっていた。
「イメチェンさ。なんてな。東京で講習会があるんだよ。ほら、最近ハイブリッドやら電気自動車が増えてきただろ?インバーターだのモーターだのさ、まるで電気製品だよ。それに比べりゃ今までの車はどっちかっつーと機械の塊だろ。俺みたいに自営で整備やってるとこなんか、ついてくのが大変だよ。頭も、道具を揃える金もな。だから協会で定期的に勉強会をやってる訳さ。そーいやヒロちゃんは電気専門だったよな?」
俺達の世代は、結構「ちゃん」付けの渾名(あだな)が多い。小学生からずっとこの呼び名だから気にならないが、いい歳したオッサン達が「ちゃん」付けってどうなんだろう。今更だな。このままでいい。
「ああ、そうだよ。電気一筋だよ。
そっかー。確かに大変だろうな。乗ってる人間は燃費ぐらいしか気付かないかもしれんけど、中身は全く違うからな。」
「そうなんだよ。お客さんにとっちゃ車は車、「分かりません」って訳にはいかないからさ。そんなことしたらとたんに客離れが始まっちゃう。自営は辛いぜ。おっと、小便小便」
井川は、トイレに行く途中で俺に気付いたらしい。偶然とは楽しいものだ。
「お、ここ赤ランプだな、ラッキー、荷物置いとくぜ。」