晴れ舞台
一緒に暮らして十年も経とうと言う頃だった。最近は歳のせいか、店のマネージャーにも嫌味を言われる。店を移るか辞めなければならなくなっていた。女は損だ。歳を取れば衰えるだけだが噺家は違う。年齢を重ねると味が出て来る。それに遊介は未だ三十を過ぎたばかりの若さだ。それに噺の上手さも加わって本当の人気が出始めていた。そんな時だった。
「姐さん……話があるんだ」
遊介が何時になく真面目な顔をしてわたしの正面に正座した
「どうしたの?」
わたしは化粧を止めて遊介と向かい合って座った。
「俺、抜擢されたんだ!」
最初は何の事だか判らなかった。
「抜擢って……?」
「昇進だよ! 真打昇進だよ! 来年秋の芝居で披露興行を行うんだよ。今日の協会の会合で決まったんだ。一人昇進だよ!」
遊介の顔が弾けていた。次の瞬間、嬉しさで遊介の顔が見えなくなった。涙が止まらなくなっていたのだ。
「よ、よかったねえ……」
それしか言葉にならなかった。通常なら十五年はかかろうと言う真打昇進。それに最近は同期と一緒の事も多い。一人昇進と言う事は、遊介の実力が幹部にも寄席の席亭にも認められたと言う事だった。
安アパートの一室で手を取り合って喜んだ。でも、それからが大変だった。真打昇進の為の準備が大変だったのだ。まず名前が三圓亭遊圓と決まった。聞けば由緒ある名前で五代目だという。代々が名人ばかりで、落語の歴史に名前を残す人ばかりだそうだ。そんな名前を貰えたのが、とても嬉しかった。
昇進に掛かる費用はとてつもなく多大で、わたしが貯めていたお金だけでは足りなかった。贔屓筋がお金の工面をしてくれた。但し、条件があった。
ある日、後援会の会長さんに遊介に内緒で呼び出された。その場所の喫茶店に赴くと会長さんはコーヒーに手もつけずに
「なあ、あんたがあってこその遊介が伸びたのは良く判っているんだ。でもこれからアイツは売れる……きっとマスコミだって取材が多く来るだろう。テレビにだって沢山出るだろう。そんな時にだな……」
会長の言いたい事は判っていた。そんな時期が近づいている予感はしていたのだ。
「判りました。わたしみたいな歳取ったキャバレーの女給なんかが付いていては良くないですね」
「すまん……これもアイツの為だと我慢してくれ。勿論、それ相応のことはさして貰う」
「会長さん。いいんです。そんなお金があるなら、あの子の昇進披露に使ってやってください。それがあの子も喜びます。わたしは昇進の晴れ姿を一目見たら田舎にでも引込みます」
「すまん……この通りだ」
会長さんは喫茶店の床に座って、土下座までしてくれた。判っていた。この日が何時か来る事を……そして、会長さんが自ら悪役になってくれている事も……
「会長さん。わたしもあの子もお互い卒業する時期なんだと思います」
結局、真打昇進披露興行の初日の晴れ姿を見て、あの子には言わずに田舎に帰る夜行列車に乗る事に決めた。
披露初日。いよいよ最後の遊介改、今日からは遊圓だ。満員で立錐の余地もない状態だった。何でも記録的な入りなのだそう。わたしは二階席の一番後ろでそっと立って見ていた。
やがて出囃子が鳴って遊圓が出て来た。その途端に「待ってました! たっぷり!」と何人も声が掛かる。割れんばかりの拍手が鳴り止むと枕に入って行った。そして本題に入って行くどうやら今日の噺は「厩火事」だ。これは歳上の髪結の女房が亭主の愛情を心配して大家さんに相談すると大家さんは、亭主の大事な茶碗を壊してみて、その後茶碗ばかり心配していて、お前の体を心配しなかったら別れてしまえと教わり、その通りにすると、体の事を心配してくれるので嬉しくなり「そんなに、あたしの事が心配かい?」「当たり前じゃねえか。怪我でもしてみねえ。明日から遊んで暮らせねえ」と下げる噺で夫婦の愛情の噺とされている。
わたしは、最後にいいものを聴かせて貰ったと思い、サゲを言うと拍手が湧く前に階段を降りて駅に向かった。
大丈夫! 今日の噺を聴いて、あの子は間違いなく名人になると思った。その為には、わたしなんかが付いていては駄目なんだ。若い名人にはそれに相応しい人が居るはずだった。いいじゃ無いか、あの子とここまで一緒に居られて、充分じゃ無いかと思う事にする。 振り返っては駄目だと思いながらもつい後ろを見てしまう。誰も知らなくても良い。名人三圓亭遊圓を売れない頃支えたのは自分なんだと……。
駅の改札で買っておいた切符を出してパンチを入れて貰い中に入る。列車が入線して来るまで、まだ間があった。わたしはベンチに座り、たばこを吸って気持ちを落ち着かせる。 嫌な事なんか何も無かった。全てが良い思い出だけだった。あの子とわたしだけの思い出を抱えてこれから生きて行こうと思った。
列車が入線して来たので鞄を持って立ち上がると、何処か遠くでわたしを呼ぶ声が聞こえた。誰だろうか?
その声は次第に大きくなり、その姿が見えて来た。何と先頭にはあの子が居る。
「待ってくれ! 何で行っちまうんだよ! 俺を見捨てて行くなんて、酷いじゃないか!」
汗まみれで、しかも高座着のままだ。駄目じゃない着物が汚れてしまうじゃない。大事な昇進用に拵えた着物なのに……。
「だって……わたしなんかは、あんたの女将さんには不釣り合いだよ。それにこんなお婆ちゃんなんか居たら迷惑だと思ってさ」
わたしの言葉を聴いたあの子は真っ赤な顔をして
「馬鹿! そんな事あるものか! 俺はお前が居てくれたからここまで来れたんだ。それなのに何で……ここで俺がお前を見捨てたら俺はろくでなしになっちまう!」
「でも、これからわたしは、アンタに迷惑を掛けるだけだよ」
「そんな事あるものか! 例えそうでも良いじゃないか。長い事俺はお前に支えられていたんだ。これから先は俺がお前を支えるんだ。それで良いじゃないか! そうやって二人でこれからも生きて行くんだ!」」
その言葉を耳にして、もう返事をする事さえ出来ず、涙で何も見えなくなっていて、ただ、あの子がしっかりと抱きしめてくれた事だけが判った。
「すまん。ワシが勘違いしておった。こんなにまで二人が深く結ばれていたとは思わなんだ。許してくれ」
一緒に来た後援会の会長さんが謝ってくれている。
「いいんです。わたしも、この人の傍にいては良くないと思っていましたから」
わたしはあの子の胸に抱かれながら幸せを感じていた。
「俺たちはお互い卒業なんてしなくて良いんだよ。何時迄も一緒さ」
その言葉が心に柔らかく染みこんで行く。折角買った列車の切符はとうとう無駄になってしまった。
その後、五代目三圓亭遊圓は歴史に残る様な名人となったと言う……。
<了>