晴れ舞台
あの人の晴れ舞台を見たら駅に行こう。そっと出て行こう。会場の片隅でいい、ひと目だけでも見ておきたい。それだけが、わたしの望み……
あの人との出会いは何でもなかった。うらぶれた場末のキャバレーで余興をやる芸人としてやって来たのだった。
恐らくまだ十代で、学校を出たばかりの感じがした。楽屋にあてがわれた更衣室の片隅で真っ赤な顔をして立っていたっけ。すぐさま朋輩の連中がからかいに行く。
「ねえ~坊や。カワイイじゃ無いの! 今晩終わったら遊ばない?」
「あら、わたしとよねえ~」
一人は頭を撫で、もう一人は股間に手を伸ばしていた。坊やの顔は赤さを通り越して蒼くなり始めていた。唇が震えていた。最初は放おっておこうと思ったが急に可哀想になり
「やめなよ! 大概にしな!」
思わず大きな声を出してしまった……わたしの剣幕に、二人共驚いて、何か言いながら下がって行った。
「もう大丈夫だよ!」
顔を見ると、心なしか生気が戻った感じがした。
「あ、ありがとうございます! 正直、どうしようかと思っていました」
改めて見ると意外といい顔をしていた。
「あんた、名前は?」
「はい、三圓亭遊介と言います。先月二つ目になったばかりです。ここは先輩の好介兄さんから紹介して貰ったんです」
好介と言うのは先月まで彼の代わりに落語のような漫談のようなのをやっていた噺家だった。誰も聴いてくれないので嫌気が差したのか、もっと良い口が見つかったのかも知れない。まあ、こんな店に来るのは大した芸人が来る訳は無いのだ。この子だって何が出来るのだろうか……最初はそう思っていた。
一日三回ショータイムの舞台に立つ。気の利いたセリフでも言えれば良いのだが、そうは行かない。見ると、案の定舞台上で固まっている。わたしは下のお客の隣のソファーから声を掛ける
「お客をかぼちゃだと思いな!」
わたしの声が届いたのか、こちらを見て頷き、やがて小咄を始めた。
「え~、新年早々、お寺で和尚さん二人がぶつかったそうです。おしょうがツー」
勿論誰も笑いはしない。そもそもあの子の噺なんて誰も聴いていないのだ。お客はあんな噺よりも女の子の胸や太腿の方が何倍も興味あるのだ。それでも、あの子は一生懸命にやっていた。
そんな、ある日の事だった。自分の持ち時間が終わっても帰らずに残っていた。どうしたのだろう、とは思っていたが、こちらも仕事で本気で気にはしていなかった。
とうとう閉店時間まで更衣室にぽつんと座っていた。
「どうしたの? 家に帰らないの?」
最初は黙って下を向いていた。もう一度同じ言葉を掛けると
「実は帰る所、無くなっちゃったんです」
うなだれて、壁際を見つめている。
「昨日までの部屋はどうしたの?」
「今朝、家賃貯めて大家さんに追い出されてしまったんです」
「そんなに貯めていたの? ここのギャラは?」
「……」
「何かに使ったの? 女の子でしょう?」
「いえ、そうじゃなくて……これ、黙っていてくださいね。ギャラの半分は好介兄さんが『俺が紹介した仕事だから半分はよこせ』って言って持って行ってしまったんです。だから毎日食べるだけで精一杯で、交通費も浮かす為に毎日歩いて来ていたんです」
そんな事とは知らなかった。芸人の世界はそうなのだろうか? それに、兄弟子なら食事ぐらい奢ってやっても良いと思った。見れば着替えが入っているのだろうボストンバッグを二つ持っていた。それに目をやると
「ひとつは高座用の着物と帯と襦袢と……」
「羽織でしょう」
「そうです! 良く知っていますね」
「毎日見ているからね。それで、何処か、当てがあるの?」
わたしの問に黙って下を向いた。ため息が漏れた。少なくともこのままでは良くないと思った。
「仕方無いね。あんた、わたしの所に来る? これでも変なヒモなんか居ないから、狭いけど寝る場所ぐらいはあるよ」
「でも、姐さんに悪いんじゃ……」
「まさか、ここに寝泊まりする気じゃ無いだろうね。それは駄目だよ。店の営業が終わるとビルのガードマンが見に来るんだ。人が居るのは許されないからね」
「本当に良いんですか?」
「ああ、来なよ。あんた見所があるから食えるまで養ってあげるよ」
「それでは、お願い致します。この御恩は必ず……」
「気にしなくていいよ」
こうして、場末のキャバレーの女給と二つ目になったばかりの売れない噺家が一緒に暮らし始めたのだった。
部屋に帰る時もあの子はわたしの荷物も持ってくれた。自分だって二つも鞄を持っているのにだ。
「何も出来ませんから、せめて荷物ぐらいは持たせて下さい。この前まで師匠の荷物なんか持っていたんですよ」
そんな事を言ってわたしの気持ちをほぐしてくれた。
遊介は初めこそわたしの勤めているキャバレーの仕事以外はなかったが、やがて同じ二つ目同士で勉強会を開く事になった。お金の無い二つ目だから僅かだが会場を借りる費用は出してやった。
随分稽古熱心だった。でも実はわたしが思っていた以上に稽古していたのだった。それが判ったのは随分後の事で、遊介はわたしの目の届かない所で稽古していたのだ。わたしが寝ている時は近所の公園で、仕事で出ている時は部屋で稽古をしていたらしい。ある時
「勉強会、会場が狭くなったので区の公会堂の小ホールでやることになったんだ。費用も、もう出して貰わなくても大丈夫になったんだ」
そう言って、今までわたしが出してあげていたお金を返してくれた。
「小ホールってどの位入るの?」
「詰めれば200人ぐらいかな? 一人千円でやろうと思っているんだ」
それを聞いて、この子の噺にそんなに人が集まるのかと疑問に思った。当日、店に行く前に覗いてみた。ホールはお客でいっぱいで、開演前だというのに並んでいる客も居た。気がついたのは、若い客が多かった事だ。傍に立っていると、口々に色々な噺家の噂が出るが、わたしの贔屓目か「遊介」と言う名前が一番多い気がした。何となく嬉しくなった。
番組表を見ると、どうやら同期の二つ目三人でやっているみたいで、二人が落語を演じて仲入りと言う休憩が入り、その後「色物」と呼ばれる落語以外の芸人さんが出て、最後が「トリ」と呼ばれる最後の高座になっていた。遊介はその最後だった。その時間まで見ていては店に遅れるので、後ろ髪を引かれる思いで、会場を後にした。
それからも遊介の会にはなるべく顔を出してお客の一人として見続けた。その後、遊介は次第に売れて行った。毎日のように仕事が入って出かけて行く。上手くなっている事は判ったが、売れると言う事はまた違うので、それは嬉しい事だった。
わたしは遊介の出すお金を使わずに貯めておいた。噺家は見栄の商売だ。遊介に粗末な着物は着せられない。なるべく良い着物を着せてやりたかった。
「姐さん。今日は遅くなるから先に寝ていて」
売れて来て次第に、そんな事を言われる日が段々多くなって行った。一人で寝るのは少し寂しい気もしたが、遊介も頑張っているのだと思うと自分の我侭は封印した。
あの人との出会いは何でもなかった。うらぶれた場末のキャバレーで余興をやる芸人としてやって来たのだった。
恐らくまだ十代で、学校を出たばかりの感じがした。楽屋にあてがわれた更衣室の片隅で真っ赤な顔をして立っていたっけ。すぐさま朋輩の連中がからかいに行く。
「ねえ~坊や。カワイイじゃ無いの! 今晩終わったら遊ばない?」
「あら、わたしとよねえ~」
一人は頭を撫で、もう一人は股間に手を伸ばしていた。坊やの顔は赤さを通り越して蒼くなり始めていた。唇が震えていた。最初は放おっておこうと思ったが急に可哀想になり
「やめなよ! 大概にしな!」
思わず大きな声を出してしまった……わたしの剣幕に、二人共驚いて、何か言いながら下がって行った。
「もう大丈夫だよ!」
顔を見ると、心なしか生気が戻った感じがした。
「あ、ありがとうございます! 正直、どうしようかと思っていました」
改めて見ると意外といい顔をしていた。
「あんた、名前は?」
「はい、三圓亭遊介と言います。先月二つ目になったばかりです。ここは先輩の好介兄さんから紹介して貰ったんです」
好介と言うのは先月まで彼の代わりに落語のような漫談のようなのをやっていた噺家だった。誰も聴いてくれないので嫌気が差したのか、もっと良い口が見つかったのかも知れない。まあ、こんな店に来るのは大した芸人が来る訳は無いのだ。この子だって何が出来るのだろうか……最初はそう思っていた。
一日三回ショータイムの舞台に立つ。気の利いたセリフでも言えれば良いのだが、そうは行かない。見ると、案の定舞台上で固まっている。わたしは下のお客の隣のソファーから声を掛ける
「お客をかぼちゃだと思いな!」
わたしの声が届いたのか、こちらを見て頷き、やがて小咄を始めた。
「え~、新年早々、お寺で和尚さん二人がぶつかったそうです。おしょうがツー」
勿論誰も笑いはしない。そもそもあの子の噺なんて誰も聴いていないのだ。お客はあんな噺よりも女の子の胸や太腿の方が何倍も興味あるのだ。それでも、あの子は一生懸命にやっていた。
そんな、ある日の事だった。自分の持ち時間が終わっても帰らずに残っていた。どうしたのだろう、とは思っていたが、こちらも仕事で本気で気にはしていなかった。
とうとう閉店時間まで更衣室にぽつんと座っていた。
「どうしたの? 家に帰らないの?」
最初は黙って下を向いていた。もう一度同じ言葉を掛けると
「実は帰る所、無くなっちゃったんです」
うなだれて、壁際を見つめている。
「昨日までの部屋はどうしたの?」
「今朝、家賃貯めて大家さんに追い出されてしまったんです」
「そんなに貯めていたの? ここのギャラは?」
「……」
「何かに使ったの? 女の子でしょう?」
「いえ、そうじゃなくて……これ、黙っていてくださいね。ギャラの半分は好介兄さんが『俺が紹介した仕事だから半分はよこせ』って言って持って行ってしまったんです。だから毎日食べるだけで精一杯で、交通費も浮かす為に毎日歩いて来ていたんです」
そんな事とは知らなかった。芸人の世界はそうなのだろうか? それに、兄弟子なら食事ぐらい奢ってやっても良いと思った。見れば着替えが入っているのだろうボストンバッグを二つ持っていた。それに目をやると
「ひとつは高座用の着物と帯と襦袢と……」
「羽織でしょう」
「そうです! 良く知っていますね」
「毎日見ているからね。それで、何処か、当てがあるの?」
わたしの問に黙って下を向いた。ため息が漏れた。少なくともこのままでは良くないと思った。
「仕方無いね。あんた、わたしの所に来る? これでも変なヒモなんか居ないから、狭いけど寝る場所ぐらいはあるよ」
「でも、姐さんに悪いんじゃ……」
「まさか、ここに寝泊まりする気じゃ無いだろうね。それは駄目だよ。店の営業が終わるとビルのガードマンが見に来るんだ。人が居るのは許されないからね」
「本当に良いんですか?」
「ああ、来なよ。あんた見所があるから食えるまで養ってあげるよ」
「それでは、お願い致します。この御恩は必ず……」
「気にしなくていいよ」
こうして、場末のキャバレーの女給と二つ目になったばかりの売れない噺家が一緒に暮らし始めたのだった。
部屋に帰る時もあの子はわたしの荷物も持ってくれた。自分だって二つも鞄を持っているのにだ。
「何も出来ませんから、せめて荷物ぐらいは持たせて下さい。この前まで師匠の荷物なんか持っていたんですよ」
そんな事を言ってわたしの気持ちをほぐしてくれた。
遊介は初めこそわたしの勤めているキャバレーの仕事以外はなかったが、やがて同じ二つ目同士で勉強会を開く事になった。お金の無い二つ目だから僅かだが会場を借りる費用は出してやった。
随分稽古熱心だった。でも実はわたしが思っていた以上に稽古していたのだった。それが判ったのは随分後の事で、遊介はわたしの目の届かない所で稽古していたのだ。わたしが寝ている時は近所の公園で、仕事で出ている時は部屋で稽古をしていたらしい。ある時
「勉強会、会場が狭くなったので区の公会堂の小ホールでやることになったんだ。費用も、もう出して貰わなくても大丈夫になったんだ」
そう言って、今までわたしが出してあげていたお金を返してくれた。
「小ホールってどの位入るの?」
「詰めれば200人ぐらいかな? 一人千円でやろうと思っているんだ」
それを聞いて、この子の噺にそんなに人が集まるのかと疑問に思った。当日、店に行く前に覗いてみた。ホールはお客でいっぱいで、開演前だというのに並んでいる客も居た。気がついたのは、若い客が多かった事だ。傍に立っていると、口々に色々な噺家の噂が出るが、わたしの贔屓目か「遊介」と言う名前が一番多い気がした。何となく嬉しくなった。
番組表を見ると、どうやら同期の二つ目三人でやっているみたいで、二人が落語を演じて仲入りと言う休憩が入り、その後「色物」と呼ばれる落語以外の芸人さんが出て、最後が「トリ」と呼ばれる最後の高座になっていた。遊介はその最後だった。その時間まで見ていては店に遅れるので、後ろ髪を引かれる思いで、会場を後にした。
それからも遊介の会にはなるべく顔を出してお客の一人として見続けた。その後、遊介は次第に売れて行った。毎日のように仕事が入って出かけて行く。上手くなっている事は判ったが、売れると言う事はまた違うので、それは嬉しい事だった。
わたしは遊介の出すお金を使わずに貯めておいた。噺家は見栄の商売だ。遊介に粗末な着物は着せられない。なるべく良い着物を着せてやりたかった。
「姐さん。今日は遅くなるから先に寝ていて」
売れて来て次第に、そんな事を言われる日が段々多くなって行った。一人で寝るのは少し寂しい気もしたが、遊介も頑張っているのだと思うと自分の我侭は封印した。