尖閣~防人の末裔たち
古川は、手の平に少し垂らすと、首筋や、半袖のシャツから太く突き出た薄毛の腕に薄く塗った。96%のアルコール度数を誇るウォッカ「スピリタス」はあっという間に蒸発してしまう、古川は汗と相まって、酔っ払いの体臭に変化してくれることを期待し、薄く、薄く何度かに分けて塗った。仕上げに瓶を口に着けて、少し、「スピリタス」を含んで、軽く口をゆすぐ。口中が辛く、熱くなり、鼻を抜ける息は消毒の臭いでいっぱいになる。そして古川は、少しだけ、飲みこむと、残りや、足元の側溝に吐き捨てた。喉から食道、食道から胃へと、熱いモノが伝っていく感覚が懐かしい。アフガニスタンの取材で散々味わった懐かしい感覚だった。
古川は、河田水産のシャッター脇の戸を静かに開けると、段ボールを中へ入れ、ゆっくりと戸を閉めた。
屈強な元自衛官で占められる河田水産の従業員を当てにしてか、この建物には、セキュリティーというものが全く考慮されていない。センサーもカメラもない。あるのは鍵のみ。この一般家庭のようなセキュリティーの無さを以前は心配していたが、今の状況ではかなりありがたい。
古川は暗い廊下を進み、階段を静かに1歩ずつ昇る、2階の人間に気付かれたらアウトだ。
まず爪先から着いて土踏まずとは反対の側から徐々に階段の踏面に着けていく。ジャングルで音を立てずに進む歩き方がここで役に立つとは。古川は、自分の積んできた経験の確かさに満足の笑みを浮かべる。
フリーの軍事ジャーナリストとして有名になる一番の近道は、人が行かない戦場の奥の奥まで行くことだった。特にゲリラに密着取材するほうが効果的だ。正規軍への取材では、許可された人間なら誰でも行ける。新聞記者時代の行動範囲では食っていけない。
命を張って闘う人間を本当に取材するなら、取材する人間も当然命を張る必要がある。数式のようにこれはイコールだ。さらに武器を持たないジャーナリストは、足手まといになってはいけない。そのことを戦場で彼らに認められなければついていけない。連れて行っても敵を攻撃してはくれないのだから、これは、イコールではない。本当はジャーナリストの方が身を守る事においては、彼ら以上に強くなければならない。ジャーナリストの武器が力を発揮するのは、その取材結果が、持ち帰られ、あるいは誰かに伝えられることで世界に伝わって初めてその効力を発揮する。現場で戦う彼らには、全くと言っていいほどどうでもよいことだった。だから、古川は、取材先の現地の言葉を覚えることと同じぐらい自分の「戦士」としての戦闘力を磨いてきた。アメリカで個人が経営する傭兵スクールやサバイバルスクールへは、今でこそ数年に1度のペースに落ちたが、最盛期は取材の無い時期を使って毎年受講していた。そこで古川は、あらゆる過酷な環境で生き延びる術を学び、磨いてきたのだった。
ジャングルに比べれば、こんな建物はどうってことは無い。銃を持っているだろうがいきなり撃たせるような状況にしなければ、こちらにも十分な勝ち目がある。
久々の緊張に高揚感が加わり怒りが渦巻く。複雑な思いで高鳴る胸を鎮めるように、古川は自分自身に言い聞かせた。
無事3階に辿り着いた古川は、暗い廊下の端に明かりの洩れているドアを見つめた。あそこだ。静かに深呼吸して演技の為に気分を入れ替える。
よし、やれる。
古川は音を立てずに扉の前に来ると、酒とつまみそしてその下に隠した食料の入った段ボール箱を小脇に抱えて、扉を一気に開けた。
「どぉ~も~、夜分にすみません。」
古川がとぼけて声でふらつき気味に会議室に入る。後ろででは、しっかりドアのノブを持ちかえて静かにドアを閉めるのを忘れない。今、2階の人間に上がってこられては厄介だ。ここは穏便に「制圧」してやる。
部屋の真ん中に立っている男が慌てて銃を背後に隠す。突然の事に、酔っ払いが迷い込んできたと判断したのだろう。銃を見た。と騒がれれば厄介なことになる。
「どうしました。」
驚きと迷惑を隠すことなく顔に浮かべた、ずんぐりとしたゴマ塩頭の男が答えた。名前は忘れたが、前に見たことのある顔だ。
男の初動が安全なのを瞬時に見やった古川は、部屋の状況を一瞬で把握する。男の傍らに長テーブルが2つ長い部分同士をぴったりと合わせて置かれている。その向こう側にパイプ椅子に座り手錠を掛けられた2人の男女。悦子が驚きと羨望の目で古川を見つめていた。昔は明るい派手な感じの美人だったが、暗くて地味な美人に変わっていた。。。その向こう側の男、、、古川は表情を保つのに必死になった。今までの怒りとは違った種類の怒りが腹から脳天へ突き抜けようとする。
何で権田さんが?俺は仕組まれたのか?
古川は、目の色が変わるのを悟られないように、すまなそうな目で古川を見つめる権田からすぐに目を逸らして、ゴマ塩頭に笑顔を向ける。
銃は隠せても、手錠をどう説明するんだ?間抜けなヤツだ。古川は、自然に相手の適応力を値踏みする。
「あ、古川さんじゃないですか。こんな時間にどうしたんですか?」
相変わらず銃を隠したままの男が、声を発した。少し声が震えているようだ。
こいつは写真のことを何も知らないのか?古川はとぼけ通すことに決めた。
「夏のうちに石垣を観光したくてまた来ました。今夜は皆さんと飲もうと思って来たんですよ。突然ですみません。」
と言いながら、古川は、銃や手錠に気付かぬふりで、段ボールを長テーブルの端に置いた。紙コップとビール瓶と取り出すと、紙コップを人数分並べてビールの缶を置いた。自分の紙コップには「スピリタス」を注ぎ、瓶を手元に置く。男がゆっくりと腕を動かすのを視界の隅に捉えながら気付かない振りでビールの準備を続ける。
「さ、どうぞどうぞ。」
顔を上げた古川の目線の高さにゴマ塩頭の男が銃を向けている。銃は日本人には少し大きめに見えるベレッタM92FSだ。銃を右手で持ち腕を真っ直ぐにこちらへ向け、半身を向けている。寸分の隙もない片手保持の射撃スタイル。典型的な陸上自衛隊員の構え方だ。
陸自出身者を見張りにつけているとは、やはり俺が来るのを用心してのことかもしれない。畜生、陸戦訓練の経験の少ない海自出身者だったら与し易かったのにな。
古川は内心舌打ちした。
「古川さん、そのまま下がってください。」
ゴマ塩頭の男がグイっと銃を前に突き出して促す。
「古川。すまん。」
権田がうなだれた。
「悟さん。どうなってるの?」
悦子が懇願するように問いかける。どうなってるか?それは俺の台詞だ。なんで権田さんとお前が一緒にいるんだ?
悦子にも権田にも言いたいことが溢れてくるが、今、俺は酔っぱらいを貫き通さねばならない。
古川は自分の心を落ち着けるように心の中で呟くと、2人の言葉を無視して、紙コップと「スピリタス」の瓶を持ったまま。ゆっくりと後ずさる。
「そんな危ないもん向けてないで、ビールでも飲みましょうよ。さあさあ。」
わざと舌足らずな喋り方で後ずさるのを止めると、古川は探るような目でゴマ塩頭の男の目を覗き込む。
ゆっくりと紙コップを目の前に差し出す。
「動くな。動かないでください。ゆっくりと壁際を回って、この椅子に座ってください。」
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹