新雪
そのとき、道の向こうに湖が見えた。急になっていた坂道の向こうには退屈を塗り替える新たな景色が待っていた。湖の向こうには白く染まった山が見える。
「みて、やっぱり凍ってるよ。これじゃあ水の中なんて見えないね」
「ああ。なんてついてないんだろう。これじゃあ…」
私は雪が固体から明らかな液体に変わる瞬間を感じた。それと同時に体を濡らす水がうっとうしくなり、天候を厭う。その悪変化と共に本当の目的が遂行されないこの世界の理不尽を恨んだ。こんな簡単なことさえ許されないのか。
「みて、木が氷面に映ってる」
「そうだ、向こうに行ってみてよ。君があの氷面の景色に映る様子を見たい。きっと澄んだこの湖だ。君のことも綺麗に映してくれるよ」
「いやよ。向こうに行ったらあなたと離れてしまうじゃない。それともあなたは私にあなたの傍から消えてほしいの?」
「そうじゃない」
「そういってるじゃない」
「そうじゃないんだ」
「だから、そういってるのと同じじゃない」
「それじゃあ、僕が向こうに行こうか。そうすれば見えるだろう」
「それも嫌」
だからと言いかけて私は自分の体が水に濡れていることに気がついた。先ほどまでの雪によるゆっくりとした濡れではない。シャワーを浴びたような、つまり雨の濡れでもない。深く黒い海に飛び込んだような、そういう濡れであった。
「とうとう雪は解けてしまったのね。そういえば気が付いた?この湖雪は一つも降り積もっていないの。不思議じゃない?」
そういわれた途端、体中に違和感を覚えた。周りから何かに圧迫され、何かの重さがかかる。さらに息ができない。口から、鼻から、耳から、水が流れ込んでくる。真っ赤な血よりも純粋なが体中をめぐり、私を苦しめる。
「そうか、ここは…」
「そう、ここは湖のそこよ。あなたが歩いてきた雪景色はあの向こう」
そういって差された指先には鞄が転がっている。いつの間にか私の身は水の中に沈んでいた。頭上に広がるは満天の星空。銀色の動く星々は私だけが作り出し、私だけがその存在を見ている。
「どう?苦しい?どう苦しいの?息ができない?体が重い?それともなに?この苦しみをあなたは表現できる?あなたが生きた薄っぺらい人生で表現できる?もう私の質問すら頭に入っていないんじゃない?そんなものなのよ、あなたの人生。本当の苦しみなんて何も知らない。勝手に苦しんでいる振りをしているだけ」
視界から光が消えていくのがわかる。端からすーっと消えていく。抗うことは許されない、絶対的な流れ。私はこの苦しみを苦しみ以外の言葉で表すことができない。
「そんな程度の人生、投げ出す価値もないわ。せいぜいこの苦しみを味わいながら生きなさい。あなたはそういう運命なの」
「君はどうして平気なんだ」
「私も苦しいわ。でも苦しいなんて言葉にしても何にも変わらないじゃない。どうせなら最期まで私のわがままのまま生きたいもの。どんな苦悩も、苦境も私のわがままを邪魔していいわけがないじゃない」
私とは違う人生を歩んできた分だけ感じ方も違う。銀星は彼女からは現れない。
「それじゃあ、僕といることも嫌なんじゃないか」
「よくわかったわね。でも離れたくてもあなたが引きつないでいるんだもの。私はあなたの意思次第でどうにでもなれる。飛んで行けと言われれば翼を作るし、木っ端みじんに消えろと言われたら巨大なシュレッダーでも用意するわ」
そういった彼女の右手には手錠のようなものが伸びていて、水中に沈んでいく私の左手に絡みつき碇のように沈めていく。
「これを外せば、僕は向こうの世界に行けるのか」
「そうよ。でもあなたにはそれはできない。あなたは私がいないと生きていけない。そもそも向こうの世界に行く必要があなたにはあるの?ないでしょう?」
「そのとおりだよ。このまま君と一緒に沈んでいけばたぶん幸せなんだろう。これは僕がここに来た本当の理由でもある。このまま死んでしまえば、その願いは叶う。でも…」
私は左手の鎖をジャラジャラと動かし、解こうと試みた。水中での作業、息がもう持たない。それでも動かした。体は素直に反応し、意識は体の生きたいという気持ちに押され始める。
「君のことは大好きだ。このまま一緒にいたい。でも僕は君のことが大嫌いになろうと思う。僕の体は生きたいともがいている。息をしたいと悶えている。感情より体は素直だ。君を失うことは僕にとって最悪のことではないようだ。君は…」
水中で彼女の目をじっと見つめる。にこやかに微笑むその顔はやはり私の好きな彼女だった。ここまでねじ曲がった彼女は初めてだったが、これもきっと彼女の一部なのだ。
ごぼっと漏れ出した空気は銀色に光りながら浮上していく。あっちが上なのだ。あの向こうには雪景色が待っている。天井の向こうの世界。仮にもう一度行けたなら何をしようか。誰も見たことのない天井の向こう側、それを知った私だけができること。それを探してみようか。
「僕はどうするのが一番いいのかわからない。でも、君とはここでサヨナラすることにする」
そう思ったとたん、鎖はさっと消え、僕の体は一つだけ浮上し始めた。銀星がごぼごぼと大粒のまま誕生しては消失し、私の体を包み込んでいく。もう少しで天井だというところで銀星たちが作り出した銀のベールのようなものが体を包み込む。優しく、暖かい、まるで彼女の抱擁のようなものだった。
黒、青、銀、白、空白。
水面を打ち付ける水は半分が雨で、半分が雪だった。少しだけ融けた湖の表面は打ち付けられる雪たちの重さに波紋を広げる。雨は次第に量を減らし、軽い雪がどんどん増えていく。白景色が新たに構築され、私はその景色をぼーっと見つめながら目を覚ました。同じ曖昧な世界が少しだけくっきりと見え始めた。
「帰るか」
凍ったままの氷面には向こう岸の木や山やそれ以外の雪景色が映り込む。その中に人間が一人そっと立っているが、雪景色の中には彼以外の人間はいなかった。
降り積もった新雪は踏まれるとサクッと互いの隙間を埋めていく。サク、サクと響く音に紛れて聞こえていた音はもう言葉に聞こえなくなっていた。