【試し読み】小野川兄弟の話
蓮太は、腰をかがめて、こんばんは、と微笑みかけた。少女は顔を伏せる。
頬に、痣がある。小学校中学年くらいだろうか。身長は、140センチちょっとくらいか。
「おかあさんは…」
「おかあさんは、元気です」
少女がつぶやく。
「おかあさんは、元気なので、だいじょうぶです」
「そう」
そこで会話が終わる。でも、少女はドアを閉じない。ドアを開いたまま、顔を伏せ続けている。
「僕は、小野川蓮太っていうんだ」
少女は顔をあげる。室内からの光にぼんやりと浮かぶ、すこし背の高い、ほほえんでいる青年の顔を見あげる。
「夕方になったら、小学校のそばの公園にいるから、もし困ったことがあったら、話をしにきて」
少女は戸惑ったように顔を振って、
「…困ってない」
と呟いた。
「じゃあ…話がしたくなったら、会いに来てよ。ね」
そう、蓮太が言うと、少女はすこしうなづいた。そして、ゆっくりドアを閉じた。
それを最後まで待って、蓮太は長いため息をついた。そして今更、ドア脇の表札を見る。大きな文字で、加古川一郎、佐和子、そしてそれに寄り添うように一回り小さな文字で、みわ。
蓮太はひとしきりその表札を見つめると、来たときと同じようなゆっくりとした歩調で外階段を下りていった。
蓮太の背後で、思い出したように外廊下の照明がチカチカと瞬き、青白い光が戻る。
蓮太はそれに振り向きもせず、ゆっくりと薄暗い夜道を歩いていった。
作品名:【試し読み】小野川兄弟の話 作家名:渡来舷