【試し読み】小野川兄弟の話
女は階段を昇っていく。蓮太もそれに続く。ぺたぺたぺた、にカンカンカン、と続く。吹きさらしの金属製階段を、女は歩調も変えずに裸足で昇っていくと、二階の外廊下を右に進み、一番端の部屋のドアを開き、中に吸い込まれていった。
蓮太は敢えて、十数秒程度遅れてその部屋の前に立つ。女によって開かれたドアの内側は闇だった。ドア横の格子がはめられたすり硝子の窓も、暗いままだ。
一瞬思案してから、蓮太はドアチャイムを押す。しかし、薄いベニヤ板の内側からチャイムらしき反響がまったく聞こえないことに気づいて、蓮太はためらいなくドアをノックした。特に力も入れていないのに、ドア自体が揺れる。
数回ノック。すぐにドアに耳を押しつける。もう一度、数回ノック。耳。外廊下の青白く、弱い照明がチカチカと瞬く。
三回繰り返したとき、ドアのすぐそば、たぶん上がりかまちあたりで、小さな足音が聞こえた。もう一度、ノックをする。耳を押し当てると、あわてて動きを停めた小さな足音。どうやら相手は蓮太のノック音に気配を忍ばせて、ドアに近づいてきているらしい。そして、そのやり方からすると、相手はそもそもドアを開ける気がないのだろう。
懲りずにもう一度ノックをする。ノックの最中、外廊下の照明が、切れた。突然、自分の拳すら薄ぼけるほどの闇に包まれるが、蓮太は変わらずノックを続けた。
ドアの向こう側、ベニヤ板を超えたすぐ向こうに、誰かの気配がする。闇の中で息を詰めている誰かに、蓮太は声をかけた。
「こんばんは」
答えはない。
「こんばんは、なにか困ってませんか」
我ながら、不思議なことを聞いてるなと思いながら、ほかにかける言葉を思いつけなかった自分に苦笑しながら、蓮太はできるだけゆっくり、少し高めの声で、話し、そのまま、黙って待つ。ドア向こうの気配は動く気配がない。蓮太は腕を組んで、ため息をついた。もう一度、ドアに頬を寄せる。
「困ったことは、ありませんか?」
そのまましばらく静止したまま待つ。外廊下は相変わらず闇だ。まったく動く気配のない状況にあきらめ始め、蓮太が外階段を振り返ろうとしたとき、ドア横の窓に明かりが灯った。
ドアが、ゆっくり、開く。蓮太は少し下がって、それをじっと待った。
ドアの隙間、正確にいうとチェーンをかけたまま開ける限度の隙間から、少女がこちらをおそるおそる見上げている。
作品名:【試し読み】小野川兄弟の話 作家名:渡来舷