Many thanks~詩集 紡ぎ詩Ⅷ~
旅行の目的は主に彼女を訪ねるためであった
まさに「2012年」という文字がそれを物語っている
ちなみに「ほっぺ」はいちごブッセで
まろやかで控えめな苺クリームがサンドされていて
家族にも好評だった
よく綺麗な包装紙や菓子箱が捨てられず溜まってゆくというが
私の場合 まさにその断捨離できない類いである
昔懐かしい菓子箱を見ただけで
当時のセピア色の記憶が郷愁と共に蘇り
小さく首を振り 空き箱を元に戻そうとした
しかし その寸前 私はもう一度箱をまじまじと見つめる
ー想い出は色褪せないー
心のどこかから もう一人の我が声が聞こえてきた
13年前の輝いた記憶は私が生きている限りは
いつまでも消えることはないのだ
ならば
そろそろ これに別の役目を与えても良いのではないかと考えた
むしろ楽しかりし輝きを放った日々を象徴するものに
再び新しい生命を授け 我が作品として生まれ変わらせる
それも良いのではないか
心の声に従った
今 自分の眼の前には
色鮮やかなブルーの韓国伝統布で装飾された「本」がある
新しい生命を得た「2012年」の想い出の象徴が
また この瞬間から新たな人生の刻を刻み始める
これは断捨離ではなく
想い出の再活用リサイクルなのではないかと
深い海色の表紙を眺めながら 一人で悦に入る
何ということはないけれど
心踊る満ち足りた日々
『夜香花』
草木も微睡む晩秋の宵
輝く銀月が漆黒の中天に昇る刻
突如 夜気に得も言われぬかぐわしい香りが混じり
誘われるように 導かれるように
私は一人 庭に佇む
あの花が咲く季節が到来したのだ
待ちに待った季節
それにしても 随分と開花が遅いものだ
今年は気づかない間にそっと花開き
静かに散ったのかとさえ思っていた
けれども
これほどの芳香をまき散らす花がひっそりと咲いて散るはずがない
あたたかな夕陽の色を濃く宿し
小さき愛らしい花をたくさんつける
その可憐さとは裏腹に
何という強烈な存在感
その鮮やかなまでの佇まいが私のこころを烈しく揺さぶる
今年もまた あの花が咲く季節がやってきた
視線を上向ければ
月明かりに照らされ 宵闇に浮かび上がる無数の金木犀たち
つかの間
小さな花たちがあまたのオレンジ色の蝶に変化(へんげ)し
薄い羽をはためかせながら宵闇で輪舞曲(ロンド)のように舞う
見惚れている私の前
蝶たちは輝きながら次々と天へと昇り 銀色の月に吸い込まれた
十三夜の夜は何かが起きる
きっと それは今年初めて咲いたあの花の見せた幻
冷たい夜風が身の側を通り過ぎ
私はゆっくりと花たちに背を向ける
濃密な花の香りに酔いしれる前に
心をそれ以上 花たちに絡め取られないように
☆『もう立ち上がれないと思ったときには』
どれだけ頑張って歩き続けたとしても
報われないこともある
積み重ねてきた努力の数だけ報われるならば
どれだけ幸せだろうかと考えてみたとしても
所詮 無駄なこと
つまずき 転んで 地面に倒れ伏したまま
もう立ち上がれない
立ち上がりたくないと
唇を噛みしめ 拳を握りしめて涙をこらえる
けれども
そこで諦めたら終わりだと自分に言い聞かせ
また 立ち上がり 覚束ない足取りで歩き始める
ーもう 同じことを数え切れないほど繰り返してきた
誰かが言った
ー良いことは続かないけれど 悪いことも続かない
頑張っているなら そのまま頑張っていれば
運は必ず巡ってくるもの
その人の言葉が
倒れ伏す私の前 暗がりを照らす一筋の光となり照らす
幸せばかりは続かない
不幸ばかりも続かない
言われてみれば
私のささやかな人生にも
けして悪いときばかりでもなく
良いことが無いわけではない
歩いて歩いて ひたすら歩き続けて
思わぬ石に足を取られてしまうこともある
それでも諦めずに 誠実に自分らしく
一日一日 一つ一つを積み上げた先に
予期せぬ幸いが待っている
未来を信じて また一歩一歩大地を踏みしめて歩き始める
歩き始めたばかりの赤ん坊のように
頼りない足取りで
☆『娘が嫁いだ日』
ー行ってきます。
そのひと言だけを残し
娘は嫁いでいった
結婚式も無く ウェディングフォトさえも無い
静かな静かな旅立ちの朝は
よく晴れた五月の朝だった
私の常識から考えると
婚礼道具は「寿」と大きく金色に染め抜かれた専用カバーをかけられ
大型トラックで運ばれるものだ(今時 時代錯誤のあり得ない話かもしれない)が
娘夫婦が言うには
新居に落ち着いてから自分たちでアウトレットの家具を見にゆくという
何もかもが親として思い描いていた結婚とは違う
正直 当惑もあった
そんな中で迎えた旅立ちの日
花嫁道具など一切ないけれど
それでも24年間 住み慣れた家を永遠に出てゆくとなれば
それなりの荷物はあるようで
当日 お婿さんの妹さん夫婦が荷物運びの手伝いに来た
彼らは実にてきぱきと娘の荷物を自分たちのバンに積み込み
娘は迎えにきたお婿さんの運転する別の車の助手席に収まった
私はドアを閉めようとする娘に慌てて近づく
ーこれ。もし、気が変わってウェディングフォトを撮る気になったら、花嫁のブーケとして使って欲しい。
小さなブーケと家族全員が書いたお祝いの寄せ書きを渡した
ーありがと、じゃ、行ってきます。
扉が閉まり 車はあっという間に見えなくなった
私はずっと車が見えなくなるまで立ち尽くしていたが
娘が振り返ることは一度もなかった
お婿さんの運転する車に続き
妹さん夫婦のバンも発車する
去り際 妹さん夫婦は私に向かい一礼し
ー行ってきます。
と挨拶していった
恐らく 気を遣ってくれたのだろう
ー行ってきます。
と出て行ったとしても
娘がこの家に戻ることは永遠に無い
不思議なもので
二十五年間もこの家に暮らし
生まれた瞬間から成長を逐一見守ってきたはずなのに
嫁いで二年余りが経過した今
あの子は本当にここにいたのだろうか
などと馬鹿げた考えに取り憑かれそうになる
子の成長なんて 本当にまたたきほどの速さで終わる
つまりは そういうことだろう
本当によく晴れた五月の初旬の朝だった
見上げた初夏の空は抜けるようにどこまでも蒼く
娘の未来を空も祝福してくれているかのように思えた
思わず滲んだ涙で空の青がぼやけたあの日
今も忘れない娘が嫁いだ日
作品名:Many thanks~詩集 紡ぎ詩Ⅷ~ 作家名:東 めぐみ



