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Many thanks~詩集 紡ぎ詩Ⅷ~

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sceneⅠ
『ガラス越しの艶(つや)』

 視界の端でふと紅が揺れた
 あれはなに?
 心の中の想いそのままに視線をすべるように動かせば
 その先にはガラス窓越しに かすかに揺れる紅椿
 くもりガラスなので
 間近で見れば眼がさめるほどに鮮やかな紅も
 何かフィルターを通して見るように
 おぼろげで控えめに見える
 
 不思議なもので
 何故か昔から 私はこのガラス越しに見る紅椿が好きだ
 いや 紅椿というより
 曇りガラス越しに揺れるほのかな紅に惹かれるのかもしれない
 その慎ましさは 何も隔てるものがなく真正面から見る姿よりも
 どこか内側に少しの淫らさを秘めているような気がしてならない
 そう まるで咲き始めたばかりの蕾のような少女が
 汚れない美しさを誇りながらも
 艶やかな成熟した女の香りをほのかに漂わせるように
 
 今年もそろそろ椿の季節も終わろうとしている
 今朝 眺めた曇りガラス越しの幾つかの紅は
 春の心ない雨に打たれて揺れていた
 そこに眼を向けても紅色を見られない一年の残りの多くの日々
 私は幻の花を思い描きながらため息を零す
 ガラス越しの艶が私にほんのひととき もたらしてくれる熱さに
 想いを馳せながら



sceneⅡ『花一輪、女の一生』
『花一輪、女の一生』
 凍てついた清澄な大気に凜として佇む白椿
 その潔さとの優しさに微笑みたくなる
 厳しさと優しさを併せ持つのは椿の中でも白椿だけかもしれない
 ふと視線をめぐらせてみる

 我が家には様々な種類の椿があるが
 一つとして同じ色のものはない
 紅 白 ピンク 斑入りの白
 艶めく妙齢の娘のような紅色
 汚れなき乙女を彷彿とさせる真白
 あどけない童女のようなピンク
 そして雪のような純白でありながら、ほんの少しの紅が混じった白

 中でもいっとう好きなのは紅入りの白椿だ
 何故なのだろう 

 私は椿を見ると、女性を連想してしまう

 その色や形である年代の、どういう風な女性かをイメージして花の姿に重ねる

 私の好きな紅入り白椿はさしずめ少女から大人になりかけている微妙な年頃だろうか

 潔癖さを示す純白にほんの少し

 傍で見なければ判らないほど僅かに紅が散ったその色は

 天真爛漫な女の子が少しずつ大人への階段を上ってゆく姿に似ている

 いつもは無垢なのに

 時々ハッとするほどの妖艶さがその仕草や表情に混じる

 真冬の凍てつく庭に佇みながら

 私はしばし椿たちを眺める

 それぞれの色をうつろいゆく女の一生の瞬間瞬間に重ねながら


 ☆様々に咲きたる庭の椿を思い出して詠める

「しろたえの 雪の白花入り交じる
  ひとすじの血 乙女の椿」





sceneⅢ『乙女椿』

廊下に佇み何気なく視線を動かせば
その先に緑の葉もつやつやしい樹があった
私が子どもの頃から変わらずそこに立つ
ひそやかに けれど 確かな存在感を主張しながら
物心ついたときには既に同じ場所にあったのだから
樹齢もかなりのものになるのだろう

今朝 ガラス窓を通して見た樹には
たくさんの蕾がついていた
花もわずかながら咲き始めている
見事な濃いピンクの乙女椿だ
はんなりとした柔らかさと毅然とした強さが同居しながらも
たおやかさはけして失わない
この季節になると頂きものの和菓子の中に
乙女椿を象った饅頭を見ることがある
まさしく自然が作り上げた美しい造形
繊細な花心 濃やかな肉厚の花びら
大振りの艶やかな花を見る度にその端麗さに見惚れる

古人(いにしえびと)は椿を縁起が悪いものと言った
桜のようにはらはらと散るのではなく
花ごと ぽってりと落ちるからに違いない
けれど 私はその潔い散り方が好きだ
何の痕跡も残さず呆気ないほどに早く落下する
願わくば何事につけてもそうありたい
自分が椿を好きだと知ったのは
奇妙なことについ最近だった
もしかしたら 不吉な花だと他人に言われ続けて
自分の中で意識しはないようにしてきたのかもしれない

今年もまた大好きな花の咲く季節がめぐってきた
自然の生きものは誰に教えられずとも
季(とき)のうつろいを肌で知り自ら花を咲かせる
そして私たち人間は花に時の流れを教えられる
今日も誰に見られることを期待するわけでもなく
ひそやかに佇む乙女椿
そんな凜として謙虚な花に私もなりたい


☆「食べられなかったうさぎクッキー」


 私は自他共に認めるウサギ好きだ。良い歳をして恥ずかしいが、いまだにウサギのキャラクターグッズを店頭で見るや、つい手が伸びてしまう。そんな自分にとって、忘れられない想い出がある。まだ長女が生まれる前、つまり新婚時代の話だ。結婚早々から夫婦喧嘩ばかりしていた私たちに、母が「出雲大社へでもお詣りしてきなさい」と勧めてくれた。
 私は夫の運転する車に乗り込み、一路出雲を目指した。確かに、出雲は遠かった。ちょっとした小旅行となり、私は喧嘩も忘れ果て、次々と車窓をよぎる珍しい景色に夢中になった。出雲詣でが目的だから、もちろん出雲大社にはお詣りしたのだが、記憶に強く残っているのは実は別の出来事だ。
 お詣り後、私たちは旅の常で、近隣の土産物店を見て歩いた。出雲大社は今や有名なパワースポットとして知られている。観光客相手に、たくさんのお店がひしめいている。お酒には強くないけれど、夫はアルコール好きだ。まずは近くのワイナリーを覗いた。そして、「それ」はそこにあった。店の片隅に一個二百円の大きなばら売りクッキーが並んでおり、私は吸い寄せられるように中の一つを手に取った。可愛いウサギの形をしていた。
 結局、旅の間に買ったものといえば、そのウサギのクッキーだけだったと思う。夫は珍しいワインの試飲があれこれ試せて、上機嫌だった。私たちは宍道湖が見える見晴らしの良いカフェで夕食を取った後、帰途についた。窓側の席からは宵闇に沈み込んだ大きな湖と、はるか湖上で無数に揺らめく光が幻想的だった。あれも忘れられない光景である。あの光の正体が漁り火なのか、湖岸に灯った灯りなのかは今もって謎だ。
 出雲様のご利益があったのか、私たちはほどなく初めての子供を授かった。娘が生まれ、初めての育児に毎日が戦争のような賑やかさで、日は飛ぶように過ぎてゆく。いつしか、忙しさにかまけて夫婦喧嘩も無くなった。
 私は出雲で買ったウサギクッキーを部屋に飾った。私にとっては食べ物というより、愛でるマスコットのようなものだったのだ。賞味期限が過ぎる頃には食べようと思っていたのに、何故か食べる気になれず、そのままになった。結局、私はその後、娘が少し大きくなり、下の子ができる頃になっても、食べることはなく、流石に数年が過ぎて名残惜しい気持ちで処分した。
 昨年、長女が結婚して家を出て、随分と淋しくなった。あのうさぎクッキーは、どんな味がしたのか、今頃になって気になって仕方ないけれど、時既に遅しである。きっと、ふんわりと甘くて、どこか懐かしい味がしたに違いない。今はウサギの形をしたお菓子には手を出さないようにしている。


☆「永遠の中の一瞬」


うだるような夏の昼下がり
部屋の外に一歩出れば
ねっとりとした大気が肌に纏わりつく