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街角の死神

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残業帰りの夜道にはもう人影も無く、暗く静まり返っている。聞こえるのはパンプスのヒールがアスファルトを踏み鳴らす神経質な響きだけだ。
 不意に別のノイズが聞こえた気がして右手の窪地にある公園を一瞥すると、ブランコに乗っている小さな人影が見えた。遠くて暗いのではっきりとはしないけど、たぶん小学校低学年くらいだろう。黒いランドセルを背負っているようだった。いや、赤かな? 服が赤いのかもしれない。
 その周辺に別の人影は見えない。こんな時間に幼い子供が独りで公園にいることに疑問を抱く。
 すると、その子供はブランコから降りて歩き出した。真っすぐ、私の方向に。
 私は視線を切って、再び路面を響かせていく。

 少し歩くと前方にこちらより広い通りが見えてきた。
 その二車線の坂道には昼間であれば多少は車が通っているのだけれど、この時間に車を見ることはほとんどない。
 さっき見た子供はあのまま階段を上って公園を出たのだろうか。まさか私を追ってきてるなんてことはないよね。
 二車線道路の信号が青だったので、私は歩調をさらに速めた。

 交差点へ到着する前に信号が赤になっても、そのままの速度で進んでいく。
 ゼブラゾーンの手前まで来て、通りの向こう側に黒服の男が立っているのに気づいた。
 最初は第三者がいたことに少し安堵感を覚えたけれど、すぐに私は心の中で舌打ちをする。
 その男は立ち止まったまま進もうとしなかったのだ。
(バカじゃないの?)と思った。車なんて一台も走っていないのに。信号が赤だから渡らない? そんなの自分で判断する能力が無い愚か者の言い訳だ。こんな間抜けな信号待ちをするのは日本人くらいだって聞いたことがある。恥ずかしいことだ。
 この状況だと赤信号で渡る私が悪いみたいなのがムカつく。もちろん、だからといって歩みを止めることはない。いつも、そうしてきた。

「左右は確認されましたか?」

 私が横断歩道に足を踏み入れると同時に男が口を開いた。そんなに大きな声ではないのに、やけにはっきりと聞こえる。
 すごく優しげで上品な声だったけれど、もちろん私は答えない。

「もちろん確認済ですよね。聡明な貴女が交通事故に遭う可能性など皆無です」

 穏やかな口調で話し続ける男。視界の片隅に映る姿はスラリとした長身で、たぶん容貌もモデルのように整っている。でも、やはり普通じゃない。この男は異常だ。バッグの中にある催涙スプレーを使う心の準備をした。
 走って逃げようかとも思ったけど、下手に刺激するとかえって危険かもしれないので、真っすぐ前を向いて横断歩道を渡り切ることに集中する。

「でも……後ろは?」
「…………」
「後ろで貴女の行動を見ている子供がいるかを確認しましたか?」
「……え?」

 思わず立ち止まってしまった私は、反射的に振り返ろうとする自分を必死に抑えた。
 振り返った先には公園にいた子供がジッと立ちつくして私を見つめている。そんなイメージが鮮明に浮かんでしまっていて、実際にそれを目の当たりにしたら叫び声を上げてしまうのが分かっていたから。

「貴女を見た子供は赤信号でも危険が無ければ渡って良いことを学ぶでしょう」
「…………」
「赤信号だからといって危険だとは限らない。青信号だからといって安全だとは限らない。その通りですよ。貴女は何も間違ってはいない」


 きっと、その子供は車が見えない時にしか渡らなかった。
 でも、やがて遠くに車が見えるくらいでも渡れることに気づく。
 かなり近くでも走れば間に合うことも経験していく。


「そして、ある日、転んでしまうのです」

 横断歩道上で私が男を睨みつけると、端正な顔立ちの微笑みが見えた。

「それがなんだっていうのよ! 私には関係無いでしょ!? 文句があるなら、はっきり言いなさいよッ!」
「いえいえ、文句だなんてとんでもない」

 男がゆっくりと私の方へと歩き出し、私も少し遅れて足を動かす。
 信号はもう青になっていた。

「私はお礼の言葉を伝えに来ただけですよ」

 すれ違いざまの言葉が耳を撫でる。

 横断歩道を渡り終えた私が振り返ると、その黒い背中は思ったよりずっと小さくなっていて、すぐに闇の中へと溶けていった。
 傍らに小さな人影がチラリと見えた気がしたけど、もはや どうでもいい。



 男が立っていた場所には白い花が置かれていた。

 それを見たのは今日が初めてではなかった気がする。
 でも、いつからあったのかは、ついに思い出せなかった。
作品名:街角の死神 作家名:大橋零人