やるせない空腹
「…夢」
「夢?」
「少しだけ…怖い、嫌な夢を見たんだ」
呟いたメイの声色は囁くよりももっと小さかった。遠い昔の幼いメイの、忌まわしい記憶を重ねた悪い夢。たどたどしい目で俺を見上げては声にならない助けを求めるその指は、いつだって俺を凍り付かせ背筋をうんと冷たくさせる。気の利いた言葉や優しいキスを与えてやることもままならない臆病で役立たずな俺ときたら、ただただこうして抱き締めてはメイの体を温める。傷を癒す方法や恐怖を取り除く方法なんて俺にはさっぱり分からないし、話を聞いてやることもろくに出来た試しがない。それでも俺の腕の中で少しずつ熱を吸い取って緊張を解きほぐしたメイの瞼が再び眠りにつく様は、なぜだか俺をほっとさせた。少なくとも俺がいることで、こいつの中の暗い闇が暴れ出さずに済んでいるのだとしたら、俺が与える腕やぬくもりも少しは意味があるものなのかもしれない。
「そいつは夢だ」
「…」
「現実じゃない」
「…ん」
「見ろ」
「…」
「俺を見ろ」
恐る恐る見上げたメイの目は透けるような深海の色だった。涙一つ零すことも我慢して湿ることを忘れたその瞳。渇いたちっぽけなガラス玉に、俺の瞳が映っている。
「怖いのか?」
ゆっくり尋ねると、ぼんやりした薄明かりの中でメイはこっくり頷いた。しかしすぐに瞳を瞑っては、違うんだとノーを返す。俺は黙って目を瞑り、こいつの瞼に口付けた。
俺のシャツを握り締め首を横に振ったその仕草がどうしても、どうにもいじらしいものだったとか。しがみつくそいつの細い体が久しく見る官能的なそれだったとか、そんなのは別にどうだって良い。しかしながら俺の左胸で何かがぷちんと音を立て弾け飛んだ予感とやらは、夜明け前の青い月よりもはっきり確かな事実であって。
「ミルクでも飲むか?」
「…ホットミルク?」
「ホットでもアイスでも何でもいい」
「それじゃあ…ね、あれがいい。リョウが作るホットミルク」
「…」
「駄目なら自分で作るから」
「…キッチンに行くぞ」
「え…わっ」
躾の悪いこの猫は、ここで待てときつく言い付けても多分俺の後をついてくる。首筋にしがみついた両腕ごと抱き上げてキッチンへと歩き出すと、じたばた暴れていたその猫もやがて諦めがついたのだろう。大人しく俺に抱かれたまま体全てを預けて押し黙る。ひたひたと続く足音と、どくりどくりうるさい心臓が俺の中をぐるぐるに掻き乱す。俺はなるべく冷静に、それでいて特別穏便に事を運ばねばならないってのに、どうにも上手く行かなかった。クールなんて果てしなく程遠い、最高に無様な狼そっくりの格好悪い男丸出しだ。やっぱりこの小さな迷い猫にそもそもの原因があるのだろうか。それとも俺の健全な欲求が事態を悪化させるのか。
やがて辿り着いたキッチンは、我ながらうんざりする程の生活感で溢れ返っていた。シンクの上に散らかる食器やシリアルの箱を押しやってその上にメイを座らせると、いよいよ我慢の出来ない狼は行儀の悪い獣さながらにメイの唇を貪って。味見して。
「あんまり、優しく出来ない」
「ホットミルク、は?」
「お預けだ」
取り敢えずキスからフルコース、だろ?息も絶え絶えにそう言うと、ごろごろ喉を鳴らすように目を細めるメイがいた。俺はこくりと息を飲んで、シンクの上の猫に身を差し出した。悪い夢も、苦い過去も、俺が全部食べてやるからって。俺だけのために泣けよって。こんなこと口に出せばきっと、こいつは目を見開いて、噴き出して、ばかだって笑うに違いないが。
キスは?と、続きを促してもう一度唇を差し出すと、メイは小さく鼻を啜り俺の両頬を包み込んだ。そしてそれから程なくして、それはそれは艶やかでたっぷりの熱を散らしたような、猫の報復が降って来た。