やるせない空腹
誰かいる。そんな薄気味の悪いことをふと感じたのは就寝前、睡眠薬代わりの酒を煽りふかふかの枕とブランケットに体を投げ出してから間もなくのことだった。寝室の外から聞こえた物音に、違和感を感じたのが始まりだ。
俺は目を開いたまま天井に映る細い影を一つ一つ追ってゆく。去年のバースデーに贈られた名前の知らない植物やブリキのじょうろの黒い影が摘み上げたように伸びていて、そういえば今日はあの鉢の水やりをやっていなかったなと今頃になって思い出す。今からでも遅くはないだろうと半ば体を起こしにかかるものの、疲労と睡魔が何倍も優勢になって押し寄せて、俺は再び目を閉じる。やっぱり明日に回そうか。このまま眠るのが得策だ。ほんの一日空けたくらいで簡単に枯れるようなやつじゃない。
しかしそれから数秒後。予想だにしない騒音で、眠りかけた俺もベッドから飛び起きずにはいられなかった。がたん、どさ。何事だ。ぼんやりした頭を抱えながらのろのろとスリッパに足を差し込んで、青黒い闇を手探りでドアに向かって歩いてゆく。寝汗をかいたTシャツが背中にぺたりと張り付いて益々気分は最悪だ。
こんな夜更けにどたばたと騒ぐものと言ったらそういない。屋根裏が住みかのねずみとか、躾の悪い飼い猫だとか。ねずみならともかく飼い猫ならば、勝手に寝床を出ないよう、ようく叱っておく必要がある。しかし生憎俺の家は、猫など一匹も飼っていない。勿論ねずみなどいる筈ない。小さくて猫にそっくりの男なら、たった一人だけ知っているが。
「誰だ」
「…」
ドアを開け身構えて、何かのいるリビングに声を掛けた。しんとしたそこは想像通り空っぽないつものリビングだった。寝る前に空けたビールの缶とつまみのスナック菓子がローテーブルに突っ立っているだけで、あとは至って変わらない。
しかし俺の目に飛び込んだのは、ねずみよりも猫よりももっと質の悪い客だった。
「あっ、リョウ!」
「!」
「…は、ハロー?」
一瞬寿命が縮まった。ハローじゃない、何だよびびらせるな。ドアの陰からひょっこりと上半身だけを覗かせたそいつはやはり、俺の良く知る猫だった。突然の不意打ちにどくどくと早まる心臓を押さえながら、ドアの陰のそいつを引きずり出す。
「い!…痛い、ごめんってば」
「今何時だと思ってる」
「さぁ…でも、どうしても」
「どっから入った」
「そっちの…窓」
「開いてたか」
「開いてたね」
半開きの窓を指差して肩を竦めたそいつの間抜け面。ぶつりと緊張の糸が解け、細っこい腕を掴んだままずるずると床に座り込む。
「ごめん、どうしても会いたくて」
「…」
「なんていうか、その、我慢出来なくなっちゃって」
俺の後を追うように同じくしゃがみ込んだ男の手が、そっと俺の頬に触れる。その手はいつになく冷たくて、ひんやりとか弱く頼りない。
それでも指先が触れるだけでじんわりと心地良くなる俺は、随分前からこいつのせいでろくに浮気すらしていない。好きだとか俺のモンになれだとかそういう口約束の類などないに等しい筈なのに、どうしてかこいつを知ってからの俺は、こいつ以外の女男共々に関心がなくなっていた。
「会いたいなら普通に呼べばいいものを」
「…そんなこと、していいの?」
「俺にしないで誰にする」
「うーん…と、そこらへんのひと、とか?」
「殺していいな?」
「冗談だよ」
「…」
「でも、疲れてたり、面倒じゃ」
「どこの馬の骨かも分からねぇ奴と逢引されるよりはマシだ」
どうしてこいつはいつだって、マトモに会いに来ないのか。俺が言うのもあれだと思うが、こいつはどこか抜けている。
しかし、待てよ。何かが変だ。窓から入ったと言っていたが、ここは確か三階だ。三階の窓から侵入なんてどこぞの怪盗じゃああるまいし、生身でそんなことする奴は大抵頭がイカレている。いやだが待てよこいつなら十分にそれを実行する危険性が。あぁ違う実際にやっちまったんだ。まさか、壁をよじ登って?おいおい嘘だろ死ぬ気かこいつ。
怪我は?と無愛想に尋ねると、へいきと得意気な返事が返って来て、ひとまず怪我はないらしい。しかし俺はこいつの凶行がもしも失敗していたらなんて、もしものことを考えては産毛の先までぞっとして。
「次したら、朝まで犯してやる」
「え…あは、もうしない」
「来い」
「…ん」
「馬鹿猫が」
取り分けキスが上手い訳でもない、当たり前だがでかい胸があるわけでもないし、かといってフェラが上手いとか、そういう特典がある訳でもない。それでも俺はこの男に心も体も盗まれて、こいつのいない世界なんて想像できなくなっている。
薄暗がりで手を伸ばし冷えた体を抱きくるめると、猫は首をしならせてくすぐったいよと仰け反った。しかし俺は腕を解くことなく、メイの首筋に鼻を押し付ける。洗い立ての洗剤のような優しい香りがやたら眠気を誘うので、眠気覚ましの意味も込めて噛み付くようにキスをして。もう一度力を込めてやると、猫は少しだけ俺を見て、鼻先を肩に擦り付けた。