鳥籠―Toriko―
グレハの言葉が、カルフェを射抜いた。グレハはそれにも関らず、そっと笑みを浮かべていた。だけど、目は寂しげで、カルフェの胸を掻き毟るかのようだった。
「きっと、主が泣いているからだ」
グレハが言いたい事が、不思議と伝わってきた。グレハは確実に分かっている。カルフェの気持ちも。状況も。だけど、グレハはカルフェ達をどうせ助けられない。カルフェは知っていた。もう止められないという事を。
カルフェは弓をしっかり握りしめ、グレハから逃げるように駆けだした。
「生きるっていうのは、自分の為かも知れない」
グレハの言葉が放たれる。
「だけど、その為にと放った犠牲は、きっと跳ね返って、不幸を招く」
言葉の一つ一つが、命を持っているかのようだった。
「犠牲の上に立つ、幸福なんてないんだ」
グレハの声はもはや、遠い過去からの叫びのようでもあった。
――それでも。
カルフェの後ろ、遥か後ろから、まだグレハは見つめている。それ以上追いかけることも出来ず、救いの手も差し出せない。だけど、カルフェはその視線から、逃れられなかった。
――それでも。
もう振り返っても、グレハの姿は見えないはずだろう。そうと分かっているのに、カルフェは振り返れなかった。カルフェの心に刺さるのは、ただ、グレハの言葉だけ。
――それでも、やるしかないんだ。
カルフェはそう信じていた。
目を覚ましてすぐに見つけたのは、窓から射す暖かな日差しだった。今日は何かの催しがあると言っていたのは、グレハだっただろうか。
何があるかはミュネにはよく分からなかったけれど、そのせいでカルフェが出かける事になるのは少し不本意なことだった。
「グレハ?」
それでも、ミュネは一言も不満を口にしなかった。何故ならいつも傍にグレハが居てくれたから。グレハはいつも、カルフェのいない時間を退屈させないようにしてくれる。だから、ミュネはグレハの事もカルフェと同じくらい大好きだった。
「グレハ、何処にいるの?」
ミュネがいるのは、グレハの家である宿屋の一室だった。少し前に、グレハとともに急に帰る事になったのだ。何故かは知らされなかったけれど、グレハが一緒なら別にそれでもよかった。
「ねえ、グレハ……」
「ここだよ」
扉を開けて、グレハは入ってきた。ミュネはやっと安心した。段々と、ミュネの心の中のグレハの存在は大きなものになってきているという事だ。
「グレハ、カルフェは?」
ミュネの問いに、グレハは表情を変えないまま答える。
「まだ帰ってきてない。まだ用事は済んでいないんじゃないかな」
ミュネは一気に落ち込んだ。ずっとカルフェにあってない。そんな気がした。そう思うと、急に心細くなって、カルフェの温もりが恋しくなって、堪らない思いに身を焼かれそうになるのだ。
ミュネはそのくらい、カルフェの事が好きだった。
「グレハじゃ不満?」
グレハの問いに、ミュネは首を横に振った。
――やっぱり、カルフェはカルフェだもの。
グレハのことが好きでも、カルフェの代わりではない。グレハはグレハ。カルフェはカルフェ。それぞれがそれぞれの代わりになんてならない。
「いつ帰ってくるのかな?」
ミュネの問いに、返答はなかった。きっと、グレハも分からないのだ。いつ帰ってくるかなんて。いつ戻ってくるかなんて。
「ミュネ、待つよ。でも、あんまり遅いと、ミュネ、カルフェのこと忘れちゃうかもしれない」
それが一番悲しかった。
ミュネの中のカルフェは、段々と色が薄くなってきている。カルフェを包んでいた漆黒が、段々と顔までを隠そうとしているのだ。大好きだったカルフェの匂いも、声すらも、ミュネの記憶から薄れ始めている。
それが一番苦しかった。
「ねえ、グレハ、本当にカルフェはあっちにいるの? だって、もう……」
それ以上、言葉が続かなかった。
カルフェに釘を刺そうとしたあの日。結局、それが、グレハのみたカルフェの最後の姿だった。それから、グレハが見たのは弓だけ。カルフェ本人は目にしていない。
だから、最期ではなかったと信じてはいる。
カルフェがどうなったのか。あの後、少しだけは分かった。カルフェは仕事を成し遂げた。カルフェが射止めたのは、世間的に善良な人。しかし、敵の多い人でもあったようだ。一般に知られない層で、彼は非常に恨まれていた。どうしてか、グレハには分からない。しかし、一言だけ添えるとすれば、世の中は、善と悪、白と黒というように、しっかりと分ける事が出来るとは限らないという事だ。
殺された男を憎むのは、世代も層もばらばらの者たち。彼らに何があったのか、公表はされていない。だが、カルフェが彼を手にかけたことで、彼を指示する大多数の者たちと、彼を憎む決して少数でもない者たちの間で、内紛とも言えるような争いが始まってしまった。
そんな中で、その引き金を引いた旅人がどうなったかという噂は、好奇心と悪意に満ちた心によって、沢山作られ、沢山流出していた。それらはどれも、ミュネに聞かせたくないものばかりで、しかしどれも、信じてしまいそうなくらいリアルなものだった。
カルフェの後姿をなすすべなく見送ったあの日。あれからもう二週間経っている。ミュネは起きるたびにグレハにカルフェの行方を聞き、グレハが答えるたびに、肩を落とす。
外から聞こえる紛争の声を催し物と誤魔化し、さらに、カルフェはそこにいると誤魔化し、誤魔化しに誤魔化しを重ね、つに動けなくなってしまった。けれど、やっぱりミュネには本当の事を言えない。怖いのだ。言ってしまったら、ミュネはどうなってしまうのだろう。
それを考えると、グレハが出来る事なんて殆どなくなってしまった。
――カルフェ……。
ミュネに与えた部屋の扉を閉めて、グレハは独り、廊下に座る。
――帰って来てくれよ……。
そう願って。
作品名:鳥籠―Toriko― 作家名:幼 ゐこみ