鳥籠―Toriko―
鳥籠――Toriko――
序.
美しい森の中だった。傍には湖が在り、光を反射している。美しい森。絵の中へと迷い込んだような錯覚を起こす、美しい森だった。
きっとこの者は、そんな森に憧れてここへ来たのだろう。
きっとこの者は、そんな森の一部になりたくてここへ来たのだろう。
だが、運が悪かったのだ。
旅人はそう感じていた。漆黒の髪と漆黒の双眸を、樹木の根元に向ける。弓矢を片手にそちらを見下ろし、その姿をじっと目に焼き付けた。
この森で生まれたとは思えない。そんな匂いがする。きっとこの者が生まれた場所は、此処ほど美しくなかったのだろう。
旅人は思いつつ、心の中で苦笑した。
全て予想だ。事実はこの者にしか分からないのだから。
そして、旅人は屈んで、その者に触れて、その姿を目に焼き付ける。
真白な鬣。開かれた目は桜色をしている。腰を抜かし、恐る恐る旅人を見上げているその姿。人間以外の何者にも見えないその姿。
しかし、旅人の目は誤魔化せなかった。目は騙せても、気配は騙せない。
獣だ。
白い鬣の獣が、目を見開いた。もがくように旅人の手を払い、樹木へと身を寄せる。空しい足掻きだった。見ているのも呆れるほど、空しい足掻きだった。
旅人は弓を下ろし、再び獣に触れた。獣は抵抗しない。ただ怯えて、震えているだけ。暴風に吹かれる可憐な花の様に。目を閉じて、この先に迎える運命に怯えているだけだった。
旅人はその身体を撫でた。
人間の様な触り心地。人間と変わらない身体をしている。
白い鬣の獣は震えつつも、その感触を静かに受け止めていた。その愛撫を黙って受け止めていた。
やがて獣から怯えは取れ、震えは違うものへと変わっていく。
旅人は獣を抱き寄せてみた。
人間の様な温もり。
その温もりを全て吸い取るように、旅人はきつく抱き締める。
獣は少し抵抗したが、すぐに諦めて旅人に身を寄せる。
その胸に埋もれ、小さく吐息を漏らす。
白い鬣を揺らしながら、旅人の手を受け入れる。
旅人は獣を抱きしめ、念じた。
――お前は逃げない。お前は逃げられない。お前は逃げようとしない。
獣がそれを反復する。
――逃げない。逃げられない。逃げようとしない。
旅人は優しくそれを見守った。
静かに己のものとなっていく獣を見守った。
旅人に埋もれながら、自らの口で鎖を嵌める獣を見守った。
その獣は、見逃すには、美しすぎた。
――これはお前の罪だ。
旅人は静かに獣を撫でた。
――お前が惹きつけたのが悪い。
旅人の手が、獣の鬣を弄る。
獣はもう、抵抗しなかった。
一.連れ合い
漆黒の旅人。カルフェはそう呼ばれていた。通り名の通りの漆黒の外套に、左目を隠す黒い眼帯。いつも灰色の髪を外套と同じ色の帽子で隠すカルフェが、隻眼の黒い狼と言われていたのは、まだまだ若い頃の話だ。それが、今では旅人になった。別段、何をしているわけでもない。だが、カルフェは同じ場所に留まる事が出来なかった。性分などではないのだ。実質的に出来ない。同じ場所に留まる事は、カルフェにとって危険な事なのだ。危険な事と言っても、カルフェの命に関わることではない。場合によってはそうかも知れないが、カルフェが関わるのを止めれば、すぐにでも命の危機は去るだろう。だが、それは出来ない。関わるのをやめること。それは、カルフェ自身の存在意義にも関わるのだ。そう考えれば、同じ場所に留まれない理由は、カルフェの命に関わるから、でもいいだろう。些か疑問は拭えないけれども。
兎も角、同じ場所に留まれない理由は、カルフェ自身から生じる問題ではなかった。カルフェの手は、いつも少し小さな手を握りしめている。小さな可憐な手。カルフェの連れ合いの手。カルフェを知る者ならば、その連れ合いの事も知っていた。寧ろ、カルフェを知らなくても、その連れ合いだけを知っている者もいる。若し近づいてきた者が後者ならば、カルフェは心から警戒した。そういった者は、大抵、カルフェの敵だったのだ。そういった者は、大抵、カルフェの隙を突いてこの連れ合いを攫おうとしている者なのだ。
連れ合いの名は、ミュネ。ある森に居た狩人の子ども部族達を見てから、ミュネはずっと猫の様な耳と尻尾の生えた赤いローブを着ている。白い髪にそのような格好では、かなり目立つのだが、逆に目立つ方がありがたい。人知れず攫われる事も逆に防げるというもの。いなくなった時も目撃情報を獲得しやすいと思い、カルフェは喜んでミュネの要望に答えて、そのローブを与えた。すっかり狩人気取りのミュネは、猫耳と尾を得てから、鳩や雀などをよく脅かしている。それだけならば、鳩や雀が迷惑するだけで済むのだが、問題もある。獲物を追うのに夢中になったミュネが、すぐにちょこまかと移動するので、やはりカルフェが手を離すわけにはいかないのだ。それと、ミュネの警戒心の少なさにも泣かされた。少し優しげに接してきた者は、誰でも信じてしまうのだ。ミュネのそんな性格は、ミュネを狙う者にとって、好都合な事だった。
そのような理由で、連れ合いのミュネからは、いつも目が離せなかった。狙われているのが何故だかは分かる。詳細までは知らずとも、分かっていた。ミュネは金になるのだ。何がどう金になるかは狙う者、各々の価値観で差があるかもしれない。だが、金になるのは変わりない。例えそれが、カルフェのものだからと言っても、関係ないことなのだ。ミュネは金になる。人を惹きつける獣だから。人間にしか見えないけれども、その本性は隠せていない。目は騙せても、気配は騙せない。幾らミュネが人間らしく振舞おうとも、人間には通じない。だから、カルフェは、町にいる時はミュネの手を離さなかった。
ミュネはと言うと、そんな状況を知ってか知らずか、自分の気の向くままに動きまわろうとし、カルフェを度々苛立たせた。ちょっとした隙に手をすり抜け、噴水へと走っていった事もある。或いは、カルフェが宿で転寝をしている間に、勝手に部屋を抜け出して遊びに行っていた事もある。その度にカルフェは血相を変えて、ミュネを探した。そして、やっと見付けた時、ミュネは何事もなかった様に、迎えに来た親に縋りつくように、猫耳と尾を揺らしながらカルフェに飛びついてくる。その感触を受ける度に、カルフェは心から安堵した。
今、一緒に歩いているのも奇跡かもしれない。
今まで、ミュネが誰にも連れ去られていない事など、奇跡かもしれない。
否、一度だけあった。もしくは二度や三度あったかもしれない。
美しい顔立ちのミュネを是非買いたいと、大金を持ち寄られた時だ。丁重に断り、すぐにその町を出ようとしたが、後ろから突然殴られた事がある。その時、ミュネは状況が読めず、力なく連れていかれてしまった。数日後、カルフェはミュネをやっと見付けた。路地の奥で、ぼろぼろになって倒れていたのだ。何をされたかミュネは言わなかったが、それ以降、知らない者に対して警戒をするという事をミュネは覚えた。覚えたというのに、ミュネにはまだまだ隙が多かった。例えば、気の良さそうな青年や、女性などには全く警戒していないようにも見えた。
序.
美しい森の中だった。傍には湖が在り、光を反射している。美しい森。絵の中へと迷い込んだような錯覚を起こす、美しい森だった。
きっとこの者は、そんな森に憧れてここへ来たのだろう。
きっとこの者は、そんな森の一部になりたくてここへ来たのだろう。
だが、運が悪かったのだ。
旅人はそう感じていた。漆黒の髪と漆黒の双眸を、樹木の根元に向ける。弓矢を片手にそちらを見下ろし、その姿をじっと目に焼き付けた。
この森で生まれたとは思えない。そんな匂いがする。きっとこの者が生まれた場所は、此処ほど美しくなかったのだろう。
旅人は思いつつ、心の中で苦笑した。
全て予想だ。事実はこの者にしか分からないのだから。
そして、旅人は屈んで、その者に触れて、その姿を目に焼き付ける。
真白な鬣。開かれた目は桜色をしている。腰を抜かし、恐る恐る旅人を見上げているその姿。人間以外の何者にも見えないその姿。
しかし、旅人の目は誤魔化せなかった。目は騙せても、気配は騙せない。
獣だ。
白い鬣の獣が、目を見開いた。もがくように旅人の手を払い、樹木へと身を寄せる。空しい足掻きだった。見ているのも呆れるほど、空しい足掻きだった。
旅人は弓を下ろし、再び獣に触れた。獣は抵抗しない。ただ怯えて、震えているだけ。暴風に吹かれる可憐な花の様に。目を閉じて、この先に迎える運命に怯えているだけだった。
旅人はその身体を撫でた。
人間の様な触り心地。人間と変わらない身体をしている。
白い鬣の獣は震えつつも、その感触を静かに受け止めていた。その愛撫を黙って受け止めていた。
やがて獣から怯えは取れ、震えは違うものへと変わっていく。
旅人は獣を抱き寄せてみた。
人間の様な温もり。
その温もりを全て吸い取るように、旅人はきつく抱き締める。
獣は少し抵抗したが、すぐに諦めて旅人に身を寄せる。
その胸に埋もれ、小さく吐息を漏らす。
白い鬣を揺らしながら、旅人の手を受け入れる。
旅人は獣を抱きしめ、念じた。
――お前は逃げない。お前は逃げられない。お前は逃げようとしない。
獣がそれを反復する。
――逃げない。逃げられない。逃げようとしない。
旅人は優しくそれを見守った。
静かに己のものとなっていく獣を見守った。
旅人に埋もれながら、自らの口で鎖を嵌める獣を見守った。
その獣は、見逃すには、美しすぎた。
――これはお前の罪だ。
旅人は静かに獣を撫でた。
――お前が惹きつけたのが悪い。
旅人の手が、獣の鬣を弄る。
獣はもう、抵抗しなかった。
一.連れ合い
漆黒の旅人。カルフェはそう呼ばれていた。通り名の通りの漆黒の外套に、左目を隠す黒い眼帯。いつも灰色の髪を外套と同じ色の帽子で隠すカルフェが、隻眼の黒い狼と言われていたのは、まだまだ若い頃の話だ。それが、今では旅人になった。別段、何をしているわけでもない。だが、カルフェは同じ場所に留まる事が出来なかった。性分などではないのだ。実質的に出来ない。同じ場所に留まる事は、カルフェにとって危険な事なのだ。危険な事と言っても、カルフェの命に関わることではない。場合によってはそうかも知れないが、カルフェが関わるのを止めれば、すぐにでも命の危機は去るだろう。だが、それは出来ない。関わるのをやめること。それは、カルフェ自身の存在意義にも関わるのだ。そう考えれば、同じ場所に留まれない理由は、カルフェの命に関わるから、でもいいだろう。些か疑問は拭えないけれども。
兎も角、同じ場所に留まれない理由は、カルフェ自身から生じる問題ではなかった。カルフェの手は、いつも少し小さな手を握りしめている。小さな可憐な手。カルフェの連れ合いの手。カルフェを知る者ならば、その連れ合いの事も知っていた。寧ろ、カルフェを知らなくても、その連れ合いだけを知っている者もいる。若し近づいてきた者が後者ならば、カルフェは心から警戒した。そういった者は、大抵、カルフェの敵だったのだ。そういった者は、大抵、カルフェの隙を突いてこの連れ合いを攫おうとしている者なのだ。
連れ合いの名は、ミュネ。ある森に居た狩人の子ども部族達を見てから、ミュネはずっと猫の様な耳と尻尾の生えた赤いローブを着ている。白い髪にそのような格好では、かなり目立つのだが、逆に目立つ方がありがたい。人知れず攫われる事も逆に防げるというもの。いなくなった時も目撃情報を獲得しやすいと思い、カルフェは喜んでミュネの要望に答えて、そのローブを与えた。すっかり狩人気取りのミュネは、猫耳と尾を得てから、鳩や雀などをよく脅かしている。それだけならば、鳩や雀が迷惑するだけで済むのだが、問題もある。獲物を追うのに夢中になったミュネが、すぐにちょこまかと移動するので、やはりカルフェが手を離すわけにはいかないのだ。それと、ミュネの警戒心の少なさにも泣かされた。少し優しげに接してきた者は、誰でも信じてしまうのだ。ミュネのそんな性格は、ミュネを狙う者にとって、好都合な事だった。
そのような理由で、連れ合いのミュネからは、いつも目が離せなかった。狙われているのが何故だかは分かる。詳細までは知らずとも、分かっていた。ミュネは金になるのだ。何がどう金になるかは狙う者、各々の価値観で差があるかもしれない。だが、金になるのは変わりない。例えそれが、カルフェのものだからと言っても、関係ないことなのだ。ミュネは金になる。人を惹きつける獣だから。人間にしか見えないけれども、その本性は隠せていない。目は騙せても、気配は騙せない。幾らミュネが人間らしく振舞おうとも、人間には通じない。だから、カルフェは、町にいる時はミュネの手を離さなかった。
ミュネはと言うと、そんな状況を知ってか知らずか、自分の気の向くままに動きまわろうとし、カルフェを度々苛立たせた。ちょっとした隙に手をすり抜け、噴水へと走っていった事もある。或いは、カルフェが宿で転寝をしている間に、勝手に部屋を抜け出して遊びに行っていた事もある。その度にカルフェは血相を変えて、ミュネを探した。そして、やっと見付けた時、ミュネは何事もなかった様に、迎えに来た親に縋りつくように、猫耳と尾を揺らしながらカルフェに飛びついてくる。その感触を受ける度に、カルフェは心から安堵した。
今、一緒に歩いているのも奇跡かもしれない。
今まで、ミュネが誰にも連れ去られていない事など、奇跡かもしれない。
否、一度だけあった。もしくは二度や三度あったかもしれない。
美しい顔立ちのミュネを是非買いたいと、大金を持ち寄られた時だ。丁重に断り、すぐにその町を出ようとしたが、後ろから突然殴られた事がある。その時、ミュネは状況が読めず、力なく連れていかれてしまった。数日後、カルフェはミュネをやっと見付けた。路地の奥で、ぼろぼろになって倒れていたのだ。何をされたかミュネは言わなかったが、それ以降、知らない者に対して警戒をするという事をミュネは覚えた。覚えたというのに、ミュネにはまだまだ隙が多かった。例えば、気の良さそうな青年や、女性などには全く警戒していないようにも見えた。
作品名:鳥籠―Toriko― 作家名:幼 ゐこみ