鬼の子の間(沈降記)
だから言いつけに背かず家を扉を守っている。彼女の母の行方は知らなかったし、父の二度目の妻の行方も、自分の新しい母の行方も知らない。だから、少女が眺めている誰もないはずの奥の部屋の扉を黙って隣で眺める。何故眦を釣り上げているのだろう。母が見つからないからだろうか。母の所在を隠していると思っているからだろうか。この奥の部屋に誰もいないのに、いると思っているのがおろかだったし、いると思わせているのもおろかだった。ならば、自分はさっさと死んでしまえばいい。
だいぶぬるくなってしまった湯飲みを、扉の前で動かない彼女の隣へ持って行く。目も合わさずに茶だけ取ってすすっていた。することも無いのでそのまま隣に座るとようやく彼女は一瞥くれたが、やっぱり興味が無いのか扉へ向き直る。彼女は捨てられた認識がないようだった。まるで捨てられるというのが最初から選択肢に無いようだった。仮に捨てるようなことがあっても草の根をかけ分けてでも会いに行くから問題が無いとでも言いそうだった。実際にはそんなことはみじんも口にせず、ただ母は悪い男に騙されたのだと父のことを罵りながら自らの母の行方を問うに違いない。父と母はどうしているのだろう。怖い怖いと言って身を寄せ合っているのだろうか。父は、母のことを哀れに思ってぎゅっと抱いたりするのだろうか。母、母、いつの母なのだろう。自分には想像することが出来ない。やっぱり一人は寂しいと思った。父のことも恋しかったがそれ以上に生きる気力に乏しいことを、父は知っているのだろうか。知らなければますます寄る辺がなかった。少女はこちらを向かない。まるで母親のことの他は興味が無いというようなそぶりで、友達がどうだという話もまるで聞かない。いつか、ふと思いついて学校のことを聞いたら、くだらないと鼻で笑ってまた扉を眺めていた。
いつ一人になっていることに気付くのだろう。
やっぱり一人はさみしいのだろうか。
それすらどうでも良かった。
わたしたちは捨てられたのだ。わたしたちは、と心の内でつぶやく。思うのは一人でも、主語は二人だ。あなたはそれを認めようとしないし、自分にはあまり執着が無いけれど、事実は認めなければならない。いつか、それはいつなのかは判らなかったがやがて人は死ぬのだ。自分もいつか死ぬのだろうし、別にそれが今でもかまわなかった。できればいま、彼女の隣で死なせて欲しかった。明確な理由は無かった。強いていうなら家族だからだ。それ以上の理由は無かったし、それ以下の理由でも無い。捨てられたところで身体は残っていて、死にたいという欲も無いからしばらく体は残っているはずだ。形骸の身体が残って、ようやく彼女は気付くだろうか。人間は緩慢に死んでいくものだ。わたしも既に死んでしまったが、いつ死んでしまったのかは判らない。抜け殻の身体を引きずって、いまも多分生きている。言葉無く彼女に問いかけてみたが、テレパシーなどあるはずも無いので、彼女は振り向くことはしなかった。黙って扉を眺めているだけだ。
その奥に誰もいないということを呟いたら殺されるだろうか。殺してくれて構わなかった。そうしたらあなたは、一人になったことに気が付くだろうか。二人並んでも一人でいるのと大して変わりなかったが、ほんの少し、その害意を加える方向を変えさえすれば、あなたは、きっと、一人になっていることを知る。
わたしたちは、
いつこの部屋を引き払わなければならないだろうかと、大分熱の冷めた湯飲みを掌で包み込みながら思った。それまではここの部屋にいようとも、同時に思った。
作品名:鬼の子の間(沈降記) 作家名:坂鴨禾火