鬼の子の間(沈降記)
リビングにつながる廊下から気づかれないようにそっと室内を覗くと、やっぱりあの子は奥の部屋を見ている。
小さく息をついてリビングのドアを閉めると、暗い廊下に座り込んで冷やの中の気配を伺う。何があっても良いように、後ろ手には電話機を握っていた。隠してある果物ナイフには手をつけないでおく。自分の家のリビングにいるのは、自分よりも二つ三つ年上の、制服姿の少女だった。容姿について控えめに言えば十人並みだ。可も不可も無く、その分飛び抜けて美人というわけでもないが、細筆で書いた様な目鼻立ちに意志の強そうな双眸を加味すると美人の域に入るのではないかと個人的に思う。初めて顔を合わせてからもう三ヶ月が経過しているが、いまだに打ち解けた気はしなかった。口を開けば母を出せ母を探している、母は悪い男に騙されたのだ、それはおまえの父なのだと、父のことを罵りながら自らの母の行方を問うよりほかはしない。それが彼女がここに来ている理由だからさほど落胆もしなかったが、けして嫌いではないので本当のところ落胆している。ただそれを言わないだけだった。言ったところで仕方が無い。
情が薄いとよく言われるが、薄いのは情ではなくて表情だと思う。
すぐに掴めるところに電話を置いて、キッチンに戻る。ガス台の上では薬缶が火にかかっていて、もうじきしゅうしゅうと音を立て始める頃合いだった。茶葉も急須に入っている。
こうして家に入れること自体、情が薄ければしないことだった。あの子供は出来るだけ家に入れるなと言われていて、家に入るようならば通報しろと言われているから、電話だけは手放さないようにしている。コードレスなのだ。それに、それを言った父は今は家にいないのだから上げたところでどうってこと無い。良い具合に沸き始めたので火から下ろして茶器に注ぐ。父の、二人目の妻の、その鬼子というのが彼女に対する適当で適切な形容詞だった。二人目の妻というのに対して、籍は入れているかどうかは疑問であったが、父も新しい母も同意はあったし、ドアの向こうの彼女を除き特に異存は無いようだった。湯を入れた急須をしばらく眺める。熱湯だと湯飲みを投げつけられたときにやけどをするかもしれないし、日本茶は紅茶よりも少し低めの温度で煎れる。それを湯呑みに入れてから、両手で持って廊下に戻る。今は父も、新しい母もこの家にはいない。居間にいる少女の累の及ばないところに避難している。自分だけこの家に残っているのはそのためだ。
新しい母はその娘であるところの少女から暴行を受けていた。はじめの母はどこにいるか知らない。自分を車に閉じ込めたまま、遊楽に興じていたから父と離婚していた。今でも金を無心しに来るが、来たところでなんの役にも立たない。居間の戸を開ける。少女が振り向かないので、そのまま茶器を机に置く。たぶん母のことしか考えていないのだろう。彼女の母がもうそこにいないことは彼女に伝えていなかったから、今でもリビングからつながる奥の小部屋に母がいるものだと思っているのだろう。お茶が入ったよと声をかけたが、返事はやっぱり全然無いのでテーブルについて一人で茶をすすり始める。母を探してどうするのだろう。家に来た新しい母の腕にはいくつもあざが出来て変色していた。新しいあざも、古いあざもある。あった。
だから、また見つけたら、また殴るのだろうか。
母が。母を。母は、
生みの母は母親らしいことはあまりしなかった。騒げばたばこの火を押し付けるから、静かに説教の本を読んでいた。そうしていれば大体は平穏にすんだ。抹香臭いとも言われたが、母からもたばこの臭いがした。たまに機嫌が悪いときがあるから、それさえ気をつければいい。新しい母は、──母は、未だに何と呼べば良いのかわからなかったが、母は、まだ生きることに未練があるのだろうか。湯飲みから口を離して水面を眺める。あるから逃げているのだろう。薄く湯気の立つ水面に見えるのは天井と蛍光灯と、その手前に映る自分の真っ黒な影だ。自分には生きている意味があるのだろうか。しばらく考えてみたが何もなかった。だから逃げずにここの部屋にいるのだろうか。
一番大事なのは自分の命だ。他人にどうこう言われる筋合いは無い。
新しい母のことを思うとき、彼女は彼女の母ではなかったし、また自分の母でもなかった。ただ身を守ろうとしている一人の人間だった。ただ父はそれに惚れただけだ。自分の命はどうでも良かった。とりあえず生きているが、本当は死んでいるのかも判らない。別に死んでいたとしてもどうも思わなかった。最悪に比べればまだましだ。当座はなんとかなるもののいつまで持つかはわからなかったが、それでもなんとかなることは知っている。
お茶が冷めるよと言ったが返事はまだ無い。
真夏の車の中において行かれたときも、はじめの内は良かったと思った。近くにいなければ危害を加えられることもなかった。だんだんに周りが暑くなって、茹だるほどになったときにはじめてこのまま死ぬのかと思ったが、特に未練は無かった気がする。そうして、きっと誰も迎えに来ないのだろうなと思ったから、その時から自分は自分で自分を捨てたのかもしれない。この子供も捨てられたはずだった。自分より少し年上とは言ってもほんの二つ三つの差だから、大して境遇が変わるわけではない。ここからそう遠くはない、二、三駅先の、繁華街に近い小さなアパートに住んでいる。父や新しい母から聞いた話の断片をつなぎ合わせて想像する。新しい母は小さな人だった。新しい母と過ごした日々はほんの一週間に満たなかったから、ぼんやりとしか思い出せなかった。色白の体にほっそりとした新しい母は、父が贈ったらしい、品の良い地味なワンピースの中に収まって小さくほほえんでいた。あざがあったことを思い出す。小さな体の露出した白い腕に、茶色い痣がゆっくりと染みていった。そこから小さなシルエットが真っ黒に焦げ出す。彼女が苛ついているのは──なぜだろう。かつて自分に近づいてきた、細く煙を上げる火のついたたばこの先を思い浮かべている横で、不倶戴天の敵がそこにいるのだというように扉を睨んで睥睨する。睥睨するのは――母が。母を。母なのだろうか。違う。そこにいるのは自分と同じくらいの年頃の少女だ。同じように捨てられた子供だ。
その子供が眦を釣り上げて、奥の扉を眺めている。
「……。」
自分が知っていることと言えば、そこに彼女の母がかつてはいたが、いまはもういないということだけだ。母は父と逃げている。出来ればなるべく足止めをするようにというのが父の最後の言葉だった気がする。もうそこには誰もいない。自分を連れて行くことも出来たはずなのに、父はここを守れと言った。ここを守って扉を開けさせないように、いつまでも彼女の母がそこにいるようにして、出来ればなるべく足止めをするように。捨て石だった。明確に自認していた。父とも、もう会えないのかもしれない。
小さく息をついてリビングのドアを閉めると、暗い廊下に座り込んで冷やの中の気配を伺う。何があっても良いように、後ろ手には電話機を握っていた。隠してある果物ナイフには手をつけないでおく。自分の家のリビングにいるのは、自分よりも二つ三つ年上の、制服姿の少女だった。容姿について控えめに言えば十人並みだ。可も不可も無く、その分飛び抜けて美人というわけでもないが、細筆で書いた様な目鼻立ちに意志の強そうな双眸を加味すると美人の域に入るのではないかと個人的に思う。初めて顔を合わせてからもう三ヶ月が経過しているが、いまだに打ち解けた気はしなかった。口を開けば母を出せ母を探している、母は悪い男に騙されたのだ、それはおまえの父なのだと、父のことを罵りながら自らの母の行方を問うよりほかはしない。それが彼女がここに来ている理由だからさほど落胆もしなかったが、けして嫌いではないので本当のところ落胆している。ただそれを言わないだけだった。言ったところで仕方が無い。
情が薄いとよく言われるが、薄いのは情ではなくて表情だと思う。
すぐに掴めるところに電話を置いて、キッチンに戻る。ガス台の上では薬缶が火にかかっていて、もうじきしゅうしゅうと音を立て始める頃合いだった。茶葉も急須に入っている。
こうして家に入れること自体、情が薄ければしないことだった。あの子供は出来るだけ家に入れるなと言われていて、家に入るようならば通報しろと言われているから、電話だけは手放さないようにしている。コードレスなのだ。それに、それを言った父は今は家にいないのだから上げたところでどうってこと無い。良い具合に沸き始めたので火から下ろして茶器に注ぐ。父の、二人目の妻の、その鬼子というのが彼女に対する適当で適切な形容詞だった。二人目の妻というのに対して、籍は入れているかどうかは疑問であったが、父も新しい母も同意はあったし、ドアの向こうの彼女を除き特に異存は無いようだった。湯を入れた急須をしばらく眺める。熱湯だと湯飲みを投げつけられたときにやけどをするかもしれないし、日本茶は紅茶よりも少し低めの温度で煎れる。それを湯呑みに入れてから、両手で持って廊下に戻る。今は父も、新しい母もこの家にはいない。居間にいる少女の累の及ばないところに避難している。自分だけこの家に残っているのはそのためだ。
新しい母はその娘であるところの少女から暴行を受けていた。はじめの母はどこにいるか知らない。自分を車に閉じ込めたまま、遊楽に興じていたから父と離婚していた。今でも金を無心しに来るが、来たところでなんの役にも立たない。居間の戸を開ける。少女が振り向かないので、そのまま茶器を机に置く。たぶん母のことしか考えていないのだろう。彼女の母がもうそこにいないことは彼女に伝えていなかったから、今でもリビングからつながる奥の小部屋に母がいるものだと思っているのだろう。お茶が入ったよと声をかけたが、返事はやっぱり全然無いのでテーブルについて一人で茶をすすり始める。母を探してどうするのだろう。家に来た新しい母の腕にはいくつもあざが出来て変色していた。新しいあざも、古いあざもある。あった。
だから、また見つけたら、また殴るのだろうか。
母が。母を。母は、
生みの母は母親らしいことはあまりしなかった。騒げばたばこの火を押し付けるから、静かに説教の本を読んでいた。そうしていれば大体は平穏にすんだ。抹香臭いとも言われたが、母からもたばこの臭いがした。たまに機嫌が悪いときがあるから、それさえ気をつければいい。新しい母は、──母は、未だに何と呼べば良いのかわからなかったが、母は、まだ生きることに未練があるのだろうか。湯飲みから口を離して水面を眺める。あるから逃げているのだろう。薄く湯気の立つ水面に見えるのは天井と蛍光灯と、その手前に映る自分の真っ黒な影だ。自分には生きている意味があるのだろうか。しばらく考えてみたが何もなかった。だから逃げずにここの部屋にいるのだろうか。
一番大事なのは自分の命だ。他人にどうこう言われる筋合いは無い。
新しい母のことを思うとき、彼女は彼女の母ではなかったし、また自分の母でもなかった。ただ身を守ろうとしている一人の人間だった。ただ父はそれに惚れただけだ。自分の命はどうでも良かった。とりあえず生きているが、本当は死んでいるのかも判らない。別に死んでいたとしてもどうも思わなかった。最悪に比べればまだましだ。当座はなんとかなるもののいつまで持つかはわからなかったが、それでもなんとかなることは知っている。
お茶が冷めるよと言ったが返事はまだ無い。
真夏の車の中において行かれたときも、はじめの内は良かったと思った。近くにいなければ危害を加えられることもなかった。だんだんに周りが暑くなって、茹だるほどになったときにはじめてこのまま死ぬのかと思ったが、特に未練は無かった気がする。そうして、きっと誰も迎えに来ないのだろうなと思ったから、その時から自分は自分で自分を捨てたのかもしれない。この子供も捨てられたはずだった。自分より少し年上とは言ってもほんの二つ三つの差だから、大して境遇が変わるわけではない。ここからそう遠くはない、二、三駅先の、繁華街に近い小さなアパートに住んでいる。父や新しい母から聞いた話の断片をつなぎ合わせて想像する。新しい母は小さな人だった。新しい母と過ごした日々はほんの一週間に満たなかったから、ぼんやりとしか思い出せなかった。色白の体にほっそりとした新しい母は、父が贈ったらしい、品の良い地味なワンピースの中に収まって小さくほほえんでいた。あざがあったことを思い出す。小さな体の露出した白い腕に、茶色い痣がゆっくりと染みていった。そこから小さなシルエットが真っ黒に焦げ出す。彼女が苛ついているのは──なぜだろう。かつて自分に近づいてきた、細く煙を上げる火のついたたばこの先を思い浮かべている横で、不倶戴天の敵がそこにいるのだというように扉を睨んで睥睨する。睥睨するのは――母が。母を。母なのだろうか。違う。そこにいるのは自分と同じくらいの年頃の少女だ。同じように捨てられた子供だ。
その子供が眦を釣り上げて、奥の扉を眺めている。
「……。」
自分が知っていることと言えば、そこに彼女の母がかつてはいたが、いまはもういないということだけだ。母は父と逃げている。出来ればなるべく足止めをするようにというのが父の最後の言葉だった気がする。もうそこには誰もいない。自分を連れて行くことも出来たはずなのに、父はここを守れと言った。ここを守って扉を開けさせないように、いつまでも彼女の母がそこにいるようにして、出来ればなるべく足止めをするように。捨て石だった。明確に自認していた。父とも、もう会えないのかもしれない。
作品名:鬼の子の間(沈降記) 作家名:坂鴨禾火