児童虐待を経験した一個人の考察。
そして、友人及び、家族に重い口を開いて話しても、初めに言ったような言葉が返ってくる。踏んだり蹴ったりってこういうことを言うと思うんだけど、因果応報では確実にない。前世に何かしたとか知らん。
今では理不尽な待遇を受けた自覚が芽生えたが、復讐とか逆襲とかそもそも考えていない。ああゆう風にするしかなかったのは人としてある意味、不憫なことだと個人的に思うからだ。
うちの姉は自ら望んで産んだ子供にも程度は違えど似たようなことをして、最終的に二人の男性の間に子供を五人残して行方不明になっている。
勉強も出来ず、真面目にアルバイトすら続かず、職になるような特技もない姉は、学習して懲りているのを見たことがなかったので、男性に寄生して生き続けるしかない。出来婚で相手に責任を取らせる手法で今まで来ているけど、あの人もそろそろ40歳になるので、その方法も長く続かないだろう。
生れつきの病気が多かったり、後遺症が多く残っている自分だが、幸い偏差値も普通より上だったし、家にいてもお金を稼げる特技もあったので、そういう意味では姉より恵まれている筈だ。何より、自身の息子も私を好きだと言ってくれて、私も息子が大好きだ。それだけで十分だ。
それでも、どうしても追体験を思い出して調子を崩すことはある。普通の人が風邪を引くのと同じような感覚でそれが起こるのだ。違う点は、対処法が異なるということだけた。
前向きに生活しているのに、そこはどうしようもないので、なんとか調子を取り戻したくて近くにいる友人や家族に話しを聞いてもらおうとしたら「聞きたくない」と言われているような発言をされるのだ。
これは治るほうが稀な問題なので、つまりほぼ一生、黙っているか、人に話しては被害者にとって理不尽な感想を言われたり、裏で蔑まれたりしていかなければいけない。
社会生活をしている人で、愚痴などが不定愁訴で治らない方が結構いるが、解決案を出しても意味がないし、聞いてても次々でてくる。それとは全く性質が違うのだ。自分の場合は時期が過ぎれば、またもとの調子に戻れる。
そう、そして一番やめて欲しいのが、偏見と差別だ。「虐待」というワードで検索するとよく出てくる「虐待による負の連鎖」という最もらしい記事。これに準じて、イメージとかで書かれたブログ記事なんかもアクセス数などの関係で上位にあがってくる。
これによってどれだけの被虐待児が人に言えずに自殺したり社会的に不能な状態になっているのか想像もつかない。
私がこの文章を書くにあたって一番気をつけたのは「断定しないこと」だ。
こういう人もいる、こういう人もいる、それでいいのではないか。
虐待によって、必ずしも負の連鎖(虐待された人は虐待を繰り返す)が起こるなら、そもそも私と息子の関係があり得ない事になる。
記事の最後に申し訳程度に「全ての方がこうなるわけではありません」とか書かれても、記事のタイトルと冒頭文がデータベースに反映される性質上、調べてそれだけの量の「負の連鎖」というワードがでてきたら、世間が誤解してもおかしくないだろう。
素人で知識の無い方はもう仕方ないから、専門家はせめて書き方に気を遣って頂きたいと思う。
十人十色なんだから、同じ部活で同じクラスメイトで、あのクラスはいいクラスだったと思う人もいれば、人生で思い出したくもない一年だ、という人間だっている筈だ。
これを見て「面倒臭いな」と思うなら、そもそもその人に関わらなければいいと思う。
距離が近いと思わなければ、そもそもあなたに話したりしない。見たくないなら、記事を見る自由があるように、見ない自由もあるんだから見なければいいと思う。
ていうか人間は簡単じゃないよ。簡単そうに見えてもそうじゃなかったりする。そういうもんだろう。自分と置き換えたらわかる筈だ。
取り敢えず、後頭部の変形が最近生活に支障を来しているので、近々脳外科にいってきます。最後までご静聴ありがとう御座いました。
作品名:児童虐待を経験した一個人の考察。 作家名:Ai.Jekyll