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児童虐待を経験した一個人の考察。

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親に話しても、友人に話しても、
「まだ言ってるのか」「忘れなよ」「重過ぎて聞いてるのが辛い」
と言われるので今まで封印してたのだが。

どんなに常に穏やかにしていようが、
毎年この時期になると意識をしてなくても爆発的に精神面で調子を崩して、意識をしてないゆえに気づかないので、体調に変化が現れて気づく。「あぁ、またこの季節か」と。

忘れなよ、とかまだ言ってるのか、と言うのは児童虐待について知識の乏しい方々から発せられる言葉だと思っている。酷い経験をした当事者は勿論言わないし、そもそもこっちが忘れていて絶好調に仕事していようが、肌が季節の湿度とか温度を覚えていて、自然と調子が悪くなる。

こっちだって忘れるようにしている。というか1年の大半はこの問題に関係ない生活を送っているし、特に思い出すこともない。
児童虐待で一番厄介なのが、一番辛かった体験などの記憶が抜け落ちてしまうことがあるということだ。

自分は最近まで10月中旬に近づくと辛くなる理由がわからなかった。単に加害者である8歳年上の姉の誕生日だから?と思っていた。
最近夢で見た追体験の記憶で思い出したんだが、身体への暴力とか心理面への暴言、経済的に食べ物や欲しいものを制限されたりするようなことはそもそも辛くなかった。

辛かったのは、2〜3歳の時に1日10円貰えるお小遣いでおやつなど買いたいものを数ヶ月我慢して買った、姉への誕生日プレゼント(中身は文房具で、綺麗にラッピングしてもらったもの)を「こんなもんいらねぇよ」と中も見ずに床に投げ捨てられた時。

これから、姉に何をされても辛いことなんてそうそうなかった。この体験は普通に覚えていたし、忘れることはなかったが、笑い話に出来る程度には、これによって自分が辛かった、という感想を抱いたことを忘れていた。
この時に通常の感覚が狂ってしまった。期待をしたら損をするので、期待をしないようにするしかなかった。

一般的な感覚として期待する、というのは贅沢な事に繋がると思うが、自分の場合は最大限の人間として尊重されるべき人権をへの期待を捨てた。

この時にショックを受けてから、動けなくなるまで暴力を加えられようと、姉の友達6〜7人の前で真っ裸にされて笑われようと、姉の友人の自称大学生のロリコンに体を触られようと、毎日夜ご飯を貰えないのに姉たちのお菓子を夜中自転車で買いに行かされることも、クリスマスや誕生日のプレゼントに姉の欲しいものを言わないと殺すと脅されることも、お小遣いを取られることも、足や手の指を重いドアで挟まれて紫色になった爪が自然に取れても、特に辛くなかった。
痛みもよく覚えていない。

そもそも、大怪我しても病院に行ったり、母に訴えたら殺すと脅されていたので病院に掛かった事はない。
幼少期に精神的に耐えられない体験をすると、痛みや辛さをそう感じなくさせる、という人間の防衛機構がある。この現象を解離と言うらしい。

知らない事は悪いことではないので、そういう悩みを抱えた方が身近にいて、関わる機会が多い方は、安易に感情の在り方を説いたりしない事をお勧めする。その人が大切な人間なのなら、余計に。
体験をカミングアウトされて、力になりたいと思うなら、それこそ知識を蓄えたりすることが大事なんではないかと思う。

痛みを感じたり、忘れたりするのは人間に大事な防衛機構なのだが、その感覚を正常に感じれない知能指数が正常値の人間もいるのだ。それが自分が引き起こした訳ではなく、単純に産まれた境遇や時期だけで左右される人間もいるのだ。

生命が生きて、現存しているのはそもそも当たり前ではない。生まれてきたくても産まれてこれない生命、生まれてきてどんなに健気に闘病していようが、天才だろうが、崇高な精神の持ち主でも、大人になる前に死んでしまう人間や生命はごまんといる。

心理カウンセラーや、専門家に酷い虐待歴を持った方が少ないというのは、性質上仕方のないことだと思う。そもそも酷い虐待を経験して、生きている方が奇跡なのだから。
ただ中には殺してくれたら楽なのにと思っていても、加害者も人間なので無闇に刑務所やらに行きたい訳ではないだろうから、半殺しぐらいに留めたりしていることが多い。
よくネットやSNSで「親に虐待されてる」という学生がいるのだが、生き残った人達は、わかる。

これも一概には言えないが、児童虐待を受けた人間は幼少期、少なからず自分に非があり、それで加虐されていると思い込んでいる。大人になったり、ある程度周りが見える年ごろになってくると、自分が明らかに周りと違うと気づくので、家族の支配から解放された時に、現実とのギャップに驚き、どんどん揺さぶりが増えていくのだ。

故に、虐待の渦中にいる人間は自分がそういう立場の人間だと認識がしにくいと言える。
そもそも携帯電話などを自由に使えて、そうされてる自覚があるなら保護を求めて児童相談所なり警察に110番したら安全なところに行けるのだ。自覚がなかったり、監禁状態によって外に出れないことから助けを求められないのがそもそもこの問題が重症化するまで明るみにでない証拠なのである。

そもそも、この件に関して、
自分が悪かったから虐待にあったのか、と聞くと大抵違うと言われる。
だが、そこから立ち直れるかどうかは自分の責任らしい。

この意見に関しては、必ずしも同意しかねる。病院に行けなかったから、後遺症が残っていても勿論気づいていない人も多いと思う。大人になって生活に支障がでたら、病院にいく、すると虐待の後遺症のような結果が出る。これを治したいと思うのが殆どの人間であって、それはその人が自分の力で生きたいと思っている証なのだ。

親が加害者の場合、過酷な体験をした場合、施設や里親さんなどに保護されたりすることが多いだろう。保護されないで黙っていた人は、大人になってから親に話しても、捏造だとか認めてもらえなかったりする。
うちの場合は、親も謂わば被害者なので、自分の娘(姉)が非人道的なことを自分が仕事中の監督下にないところで自分の娘(妹)に働いてた現実を蒸し返されるのが辛いらしい。

つまり、どれだけ後遺症があろうと、障害が残ろうと、本来の加害者が医療費を出してくれる訳でも、慰謝料を払ってくれる訳でも、生活を一生面倒見てくれる訳ではないのだ。
障害や後遺症と一生付き合うのは被害者で、やっと地獄の様な日々から解放されたら、今度は大人として働いていくという現実が待っている。

そして自分が働いてたお金で病院で治療を受けたり、その件で精神的におかしくなったら自分の保険証で精神科を受診したりしなければならない。これに対して、私的には物凄く理不尽に感じる。児童虐待は倫理的にも法律的にも許されないことなのに、その後の人生は自己責任というのは暴力や衝撃体験によって負った後遺症を抱えやすいこの件に関しては、背反するのではないかと思う。

なんか、もうこれだけで充分なんでないかと思う。治療費を被害者なり被害者の保護者が負担しているっていうのが、第三者行為による加虐なのに、明らかにおかしい。