それから
それから(4) 救いの手
俺の手が遅かったのか、充分時間を掛けなければならないほど、貸し家の床下が傷んでいたのか・・
それは、はっきりとしないか、新しい仕事先に勤め始めるまでに、床下の補強は、終えられなかった。
従って、当分の間、俺は、その部屋の横桁だけを踏んで、窓の開け閉めなどする羽目になった。
だけど、急ぐ事など無いさ。此処に住むのは、俺一人。他の誰にも迷惑など掛からないから。
それに、トントン、コンコンの音がしないから、言いたい放題の婆さんも、顔を出さないし・・
新しい仕事先に勤め始める数日前に、その会社から電話があった。
「出来れば、今日、これから事務所まで来て欲しいけど・・」
「はい、わかりました。」
と、俺は、自転車で事務所まで行った。
そこで、案内されるままに、一応社長室へ・・
「ああ、突然呼び出して・・」
「いや、どうせ暇ですから・・」
と、お互い話し始める。四方山話が、長い・・
俺は、いくらなんでも世間話をする為に、わざわざ呼ばれたのではないと、
「ところで、ご用件は・・?」
「ああ、その事じゃけど、ちょっとうちの都合で、出勤をひと月ほど先からにして欲しいんじゃけど・・」
「あ、そうですか・・」
「うん、(働く)人は、欲しいんじゃけど、来月から始まる筈の工事に、ちょっとストップが掛かって・・」
「・・分かりました。それで、ひと月先には、此処で働かせて頂けるのは、間違いないでしょうね?」
「それは、間違いない。約束は、守るつもりじゃ。だからこそ、わざわざ来て貰うたんよ。・・あんたにも都合が有るじゃろうし、用件が用件だけに、電話という訳にも行かんけん。」
と、その日、俺は、作業服などを貰っただけで、勤め始める前から自宅待機となった。
家に帰った俺は、
(さて、ちょいと困った状況になったな・・)
と、粗大ゴミの中から拾って来た、錆びたパイプ椅子に座って考えた。
目の前には、やはり粗大ゴミ出身の、プラスチック製キャンプ用テーブル。
ひと月くらいなら、別に働かなくても何とか暮らせる。
問題は、社長の言葉を信じるかどうかの一点だ。
俺は、世間話の内容や、会社の古びた机・事務機などを思い出しながら・・暫く黙り込む。
どれくらいの時間が経ったのかは分からない。が、俺は、俺を(一応)社長室に案内し、お茶を出し、そして、帰りを見送ってくれた事務員に(何かの力に依って)気付かされた。
彼女は、終始不安そうな顔をしていた。それは、この会社の先行きに対する不安の顔ではなかった と思う。
(何なんだろうなぁ・・)
(・・・・)
(まさか、俺が、『ひと月も待たねばならないのなら、他を探します。』と言い出すのではないか という不安・・?)
と、意外な方向に考える俺・・
そして、
(此処は、ひとつ、そのまさかに賭けてみようか・・)
と。
後で分かったのだけど、その事務員は、社長の娘さんだった。
当時、経営が、あまり思う様に行かず、美味い仕事を逃してばかりであったそうだ。
従業員さえ充分に確保出来れば、何とか工期を間に合わせられるけれど、その従業員の安定が保証できない。
正直な社長は、はったりでも噛まして仕事を受ける性格ではない。
いきおい仕事は少なくなる。資金繰りの為に、赤字も辞せずと仕事を受ける。相手は、足元を見て、更に安請け合いを強いる。
その様な状態の時期であったらしい。
まあ、待つと決めたから、待っている俺は、特に心配など無いのだが、それを脇から見ている大家の婆さんは、事情が分からないだけにイライラが募る。
「あんた、何時から仕事に行くんね?」
「ほんまに仕事が、決まっとるん?」
「ええ若い者が、一日中ゴロゴロして・・」
と、有り難いといえば有り難いのだけど、いちいち棘の或る言葉を吐きながら通り過ぎる。
そんな俺に、初めて声らしい声を掛けてくれたのが、反対隣の姐さん。
この人は、ある老舗の御曹司と結婚。しかし、子宝に恵まれず、ついには、旦那が、外で子どもを作ってしまい、家族中から追い出される様にして、離婚させられた経緯を持つ。
以来、彼女は、実家に住み、数ある縁談の一切を断って、繁華街の一角でスナックを経営しながら今に至る。
非常に頭の良い人であり、その人を見る目は、ちょいと注目すべき才能だ。
その姐さん、
「あんた、おばちゃん(大家さん)を騙したらいけんで(駄目ですよ)。」
「俺、本当のことを言ってますよ。だけど、行く予定の会社の事情で、出社が、もう少し後になりそうなんです。」
「それなら、他を探せばええじゃろ。」
「いや、俺、その会社で働いてみたいんです。」
「・・どうして?」
俺は、隠さず訳を話した。
「・・ふ~ん、変わっとるねぇ、あんた・・」
「特に変わったつもりは、ありませんが・・」
「まあ、ええわ。あんた、仕事先が、来いと言うまで、うちの店でバイトしんさい。おばちゃんには、うちから話してあげるけん。」
と、姐さんは、その足で、大家の婆さんの処に・・
そして、再び、婆さんと二人で、俺の処に来た。
「あんた、とうとう、ちーちゃんにまで迷惑を掛けて・・ 仕事が、決まっとるとか言うとるけど、ほんまの事かどうか・・」
と、開口一番、婆さんが、のたまう。それを、
「おばちゃん、さっきも話した様に、この男は、嘘なんか言うとらんよ。ただ、馬鹿なだけよ。・・ほんまに、今にも潰れそうな会社で働いてみたいなんぞ、馬鹿を通り越してアホよ。
じゃけどね、うちは、この男の正直さが、ちょっと気に入ったけぇ、うちで仕事をさせるわ。心配せんでもええよ、家賃分くらいは、給料を出すけん。」
いやいや・・、この姐さんの一言で、俺は、家を追い出されずに済んだ・・
話が決まれば、事は早い。
俺は、早速、その日からバイトを始めた。
姐さんに連れて行かれた店は、俺が、想像していたよりも大きくて綺麗なものだった。
「さあ、掃除しんさい。」
と姐さん。
「はい、分かりました。」
と、俺は、掃除を始める。
飲み屋の掃除など、マニラの裏町で何年もやってるから、何処に気を付けるべきかなどは、教えられなくても大体分かる。
俺は、手早く掃除を済ませ、次に、カウンターの後ろに並べてあるグラスを、端から丹念にチェック。そして、少しでも色合いが変わったものとか、翳りを感じるものなどを取り出し、徹底的に磨き始めた。
「あんた、この仕事、初めてじゃないね。」
「はい、フィリピンで、バンド演奏とホールや食器を綺麗にしてましたから・・」
「そうね? それで、バンド演奏と掃除のどっちが上手じゃったん?」
「どちらも似た様なものでした。」
「・・それが、どうして土建屋さんで働きたいん?」
「さあ・・」
「さあ・・言うて・・・。あんた、面白い人じゃねぇ・・」
「そうですか? 特に、そんな気は、有りませんが・・」
などと話しているうちに、この店で働いて居る女性達が、来る。
姐さんは、俺を彼女等に紹介。
「暫くお世話に成ります。」
「色、黒いけん、くろちゃんいうて呼ぼうか・・」
「俺、さんばんですけど・・」
「じゃけど、源氏名が、要るじゃろ。」
「さんばんで、好いです。肌の色は、そのうち白っぽくなる筈ですから・・」