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アトリエのある風景

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 小品   アトリエのある風景              佐武 寛
 あれっと思って窓を見た。誰もいない。しかし確かに人の姿が映っていた。さっきまで、確か其処に居て、こちらをのぞいていたのだ。若い女のようだった。 アトリエでは、女の裸身をモデルに作品を描いている。きゃんぱすがあちこちに数脚、無造作に立てかけてある。そのなかには他にも描きかけの画がある。廃校になった小学校の空き教室を借りている。幸助は此のアトリエが大変気に入っている。幅広いガラスのとかいくつもあって、山からの光が鮮やかに差し込んでくる。幸助の配偶者が此の小学校の先生だった。今は一キロも離れた新設の統合小学校に通っている。行き帰りに妻が立ち寄ってくれるので、仕事が忙しくなってこちらに寝泊まりしても不便はない。幸助の寝室兼居間は昔の校長室である。 「この女は誰だ」幸助は作品を描きながら、頭の中でそれを追っている。妻と結婚する前に入水した女ではないかと、あの時のことを思い出している。まだ学生だったころに恋愛した女で、結婚を約束していた。彼女とは、同じ大学のサークルで知り合って、同棲した仲である。妻には彼女のことは打ち明けていない。 この日は、不安を抱えて久しぶりに帰宅した。妻の愛子が先に帰って居て、遅い夕飯の準備にかかっていた。幸助が車をガレージに留めて、玄関に入ると、その音に気付いた愛子が、キッチンから急いで出て来て、幸助にハグした。それは抱きつくよりもふんわりとした感じで、挨拶のようであった。幸助は其のほんのりとした暖かさにホッとした安らぎを覚えた。だが、愛子が急に腕を解いて幸助の顔をのぞく様に見た。幸助がそれに驚いて愛子の顔を見返すと、愛子から思わぬ言葉が飛び出してきた。 「女の匂いがするよ、べっとりとあなたの襟首に着いているの」 幸助は真っ青になった。 「モデルさんの匂いでは無い、全く別の人よ」  愛子も画家である。モデルと画家の戯れは知り尽くしている。今、幸助のモデルになっている女性は、愛子のモデルでもあった。だから彼女の匂いでは無いと断言できた。 幸助は、愛子を振り払うようにして居間に入ると、急いで部屋着に着替える。愛子はそれを手伝いながら、女の匂いを確かめるように、幸助の体を嗅ぎまわっている。 幸助には浮気相手の女がいると、愛子は画家仲間から聞いている。幸助には恋仲になった女と入水心中をしたが、死にきれなくて自分だけが生き残ったという負い目がある。その女がアトリエを覗いていたと、幸助は動揺している。実は、幸助を先生と仰いでアトリエに時々来る若い画家志望の女がいる。そのことを幸助は愛子に打ち明けていない。 この夜は、匂う女の正体を巡って、愛子は幸助に、噂の女ではないかと疑いを懸けたまま、敢えて深くは追究しなかった。追究すれば自分がみじめになるという自尊心が妨げた。 「自分に自信を持たなくちゃ、幸助は私に惚れこんで結婚したのだ。彼は私なしには生きられないのよ。女の一人や二人、浮気ならいいじゃないの、本気にならなければ、必ず私のもとにもどってくる」 愛子は、翌朝、朝食の支度をしながら、エプロンのポケットに片手を突っ込んで、元気を出していた。そして何か握りしめる所作を繰り返しながら。空いた手でトーストのスイッチを入れていた。幸助はまだ寝床にいる。コーヒーのかぐわしい香りが立ちあがると、幸助は、呼ばなくても、起きて来る。愛子はその前に自分一人でコーヒーを楽しむ。明らかに、倦怠期である。 「この女かなあ」 愛子はポケットから一枚の写真を取り出して眺める。自分よりかなり年下で、夢二の描く女に似ている。可憐さがロマンを引き立てているような女である。この写真を見て、愛子は、幸助はまだ、女に夢を見ていると感じた。愛子は、ある日、幸助が脱ぎ捨てたズボンのポケットから此の写真を取り出したのである。其の日は、幸助が仲間内の宴会に呼ばれて、夜遅く帰ってくると、酔いつぶれて寝床に入ったのである。「匂う女」の正体は不明のままだったが、数カ月後、ポケットの写真の女が、愛子を訪ねてこの家にやって来た。その時、開けたドアが運んできた風が、あの時、幸助の肌に着いていたのと同じ匂いを漂わせた。 (終り)  

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作品名:アトリエのある風景 作家名:佐武寛