白々しい夜
取り出したジッポで火を点けて一口深く吸い込むと、シートにもたれドアに肘を付いた。ようやく走り出した街並とガラスに映り込むステレオの灯りとがどしゃ降りでじわりと滲んでいる。
ハンドルを握るそいつの横顔をちらりと覗き見たものの、流石に奴も口を噤み運転に集中しているらしかった。そう言えば今日は一日中、こいつの機嫌は悪くなかった。それでいて珍しく俺のことを家まで送ると言った時には、いよいよこいつもいかれちまったかと俺は頭を抱えた。
…いや、違う。それはあいつに対する唯一の反抗、…建て前で、本当は俺が一番にそれらの訳を知っていて。
「悪いな」
「…」
「気が立ってたんだ」
「…」
「せっかくの一日だってのに、どしゃ降りで全部台無しだ」
「…」
「ツイてないな、笑っちまうぜ」
ざあざあと打ち付ける雨音が車体をひっきりなしに叩いていた。雷鳴は幾らか落ち着いて、フランス語講座もいつの間にかクラシック講座へと変わっている。そしてそれらが災いし、俺はこいつなりの精一杯のもてなしすら素直に喜べないときた。
「悪かったな」
もう一度呟くと、何の話だ?と言いたげに肩を竦める奴がいて。
「今日が何の日か知っていたんだろ」
「は?」
「いや、いい。こっちの話だ」
ワイパーに合わせてこつこつとハンドルを叩く指先に、はっと我に返るのだ。そうだ。何をしているんだ。よりによって祝われでもしたら一番厄介なこいつにだ、聞くなんて俺も馬鹿げてる。面と向かっておめでとうなんて言われた日には、それこそ世界も俺もおしまいだ。
アッシュトレイに煙草を押し付けると、ブレーキを踏み俄かに機嫌を直した奴が面倒臭そうに俺の顔を見る。信号は赤になったばかりらしく、発進まで暫くかかりそうだ。
「金曜だろ?」
「あぁ、そうだな」
「金曜…か」
「あぁ、もういい。何でもないから急げ」
湧き上がる後悔に入り混じる寂しさにも良く似た感情に、うんざりするのは目に見えた。何だかんだで俺はこいつの言動に意味を求めてしまったのだ。何を期待していたのだろう。良い歳した男が笑わせる。ずっと昔の同じ日に俺が生まれただけのことだ。
しかし不意に次の瞬間、赤信号を見つめる奴の目が俺にぴたりと向けられた。投げられた視線と目が合って、ぎこちなく苦虫を噛み潰す。まさかこれから数秒後、奴の吐き出した一言に思い切り噎せる羽目になるなんて。
「知ってるぜ」
「は」
「誕生日。今日はお前が生まれた日だ」
「…」
「おめでとう、言ってなかったな」
「っ」
「俺が忘れたとでも思ったか?」
「げほっ、ごほ、げほっ」
「汚ぇな」
思わず咳き込んだ俺から目を逸らし、奴はにやりと微笑んだ。信号が青に変わってもアクセルを踏む気配はない。こんなどしゃ降りの夜だからか、後ろからクラクションを鳴らす者は幸い一人もいなかった。
しかしそれが俺には不幸であり、最大の恥辱を思い知る檻のような一時にも値した。そもそも車に乗り込んだ時点で、俺はコイツという最低最悪な恋人の罠に掛かったも同然なのだ。
そんなに嬉しかったかと小さく呟いたそいつはやはりどこかネジが緩んでいるに違いなくて、はにかんだような笑みを浮かべながら愛しい、愛しい恋人に汚らしい言葉や中傷を平気で吐くような男だった。
一方で俺はと言えば、嵐に紛れやって来た世界の終わりというやつに涙すら目尻に浮かべながら咳き込み嗚咽を漏らしている。そうしてこれから自分の身に起こるありとあらゆる災難を想像し大いに悔やみ恨むのも、まさに今この時だった。
「プレゼントは、もちろん俺でいいよな?」
「なっ…ごほっ、ふざけるな」
「有難く受け取れよ、愛してるぜ」
顎を押さえキスをする奴の胸に、どすんと拳を押し付けた。
「調子にのんじゃねえ!クソ野朗!」
「…いいぜ。今夜は出血大サービスだ、寝かせねぇからな」
期待なんて、していない。
無論、耳を赤くしながらもらしくない表情の奴同様、完璧にのぼせた男が一人助手席に座っているなんて、認めたくない最悪の事実だ。