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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
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~そのまえ~(湊人過去編)

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〜そのまえ〜(湊人過去編)



 放課後の音楽室で、湊人はひとりピアノを弾く。

 高校三年の春、同級生たちは進路の模索に浮き足立つ中、湊人は音楽室に通う日々が続いている。放課後は部活動に励んでその後は家族の待つ温かな家に帰宅する、というたいていの高校生が送っている日常とは大きく異なる生活を初めてもう丸二年になる。
 
 初音と要に出会い、ジャズの老舗レストラン『ラウンド・ミッドナイト』 の下宿に居を移して以来、自宅アパートには戻っていない。
 
 湊人の日常はピアノを中心に回っている。学生の本分である学業は湊人にとってほんのおまけ程度にすぎず、クラブに所属したこともなく、音楽室でひとしきり弾いたあとは『ラウンド・ミッドナイト』でのアルバイトにむかう。湊人の担当は洗い場だが、客やプレイヤーから声がかかればステージに上がることもある。その一瞬の演奏にすべてをかけるため、日々の練習を欠かさない。

 けれど下宿先の古アパートにはピアノがない。店のグランドピアノも気軽に弾かせてもらえるわけでもない。
 
 第二音楽室の鍵が時たま開いたままになっているのをいいことに、何度か忍び込んで練習していると、音楽の教科担当に見つかってしまった。いつもなら周囲の視線を気にしているのに、その日はテナー・サックスの巨匠ソニー・ロリンズの『オレオ』に没頭してしまい、一時間もぶっ通しで弾いていた、と口髭を蓄えた教師にあきれられた。
 
 今ではその教師が自ら音楽室の鍵を貸してくれる。その代わりに彼が心酔するジャズピアニスト、バド・パウエルの演奏を月に一曲ずつ披露するという条件付きだったが、自分のレベルアップも兼ねることができて、ありがたい話だった。

 今日も音楽準備室にこもってパイプをふかしている教師に鍵を借りて、音楽室のピアノを弾く。校舎は各学年の教室が並ぶ北舎と、理科室や美術室などの特別教室が並ぶ南舎に分かれている。三階にある第一音楽室は吹奏楽部のメンバーが占拠しているが、四階の奥になぜか孤立している第二音楽室の付近はいつも人気がない。時折、吹奏楽部の誰かが楽器を持って上がってくることはあるが、ほとんどの生徒はよりつかない場所だ。

 同級生で湊人がピアノを弾くことを知っているのは、友人の篠原健太だけだ。剣道部で主将を務める彼は、なぜか一年の頃から湊人を気にかけて、あれこれと誘いをかけてくる。クラスメイトと一切交流を持とうとしない湊人に、なぜ彼のような人気者が声をかけてくるのか今でも不思議だが、底抜けに明るく裏表のない健太の姿勢には何度も心救われてきた。

 音楽室の窓を開けると、春のやわらかな風が吹き込んできた。真下にある剣道場からは部員たちの高らかな声が響き渡ってくる。今日も竹刀片手に袴姿の健太が、汗を垂らしながら練習にいそしんでいるのだろう。剣道どころかスポーツにも縁遠い湊人だが、彼らの空を突き抜けていくような声は清々しい余韻を心の奥にもたらしてくれる。

 風に揺れるカーテンを見ながら、湊人はグランドピアノの前に着席する。何に必要とされているわけでもないのに、あのちょっと変わった音楽教科担当のおかげで、このピアノはいつも状態がいい。誰に必要ともされていないのは自分と同じだな、と胸の奥でつぶやきながら鍵盤に指を並べる。
 背筋を正して白と黒の鍵盤を見つめる。今日の一曲目が下りてくるのを静かに待つ。

 舞い上がったカーテンの向こうに青い空が見える。指は自然と『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』を弾き始める。
 
 ――樹木は青々と生い茂り、バラは赤く色づいている。あなたや私のために咲く花を見ると、しみじみ思うんだ。世界はなんて素晴らしいんだろうと。

 姉の初音に似て歌が苦手な湊人は、脳内で歌詞を再現する。亡き父と共に演奏していた女性ヴォーカリストの歌声――

 ふと気づくと、どこからかかすかな歌声が聞こえた。記憶の産物ではない、確かな響きが湊人の耳をくすぐってくる。
 弾く手をとめずに、湊人は声の主を探した。音楽の男性教師ではない、幼さの残る女性の歌声――

 わずかに空いた廊下の窓の向こうに人影がある。こげ茶色のポニーテールが風に揺れ、メガネの中にある大きな瞳が瞬きをしている。小さなくちびるが動いている。声の主は彼女なのだろうか。
 
 ――青い空と真っ白な雲。そして昼の輝きと夜の闇。しみじみ思うよ。この世界はなんて素晴らしいんだろうと。

 ため息がでそうなほど美しい発声で彼女は英語の歌詞を紡ぐ。少し低めのよく通る歌声が、春の薄青い空に溶けていく。うつむきがちの額の前で前髪が遊んで、湊人の心を揺さぶる。

 歌を引き継ぐようにピアノソロを弾き始めると、彼女は驚いた様子でこちらに振り向いた。
 薄茶色の瞳が湊人の姿をとらえた。それでもかまわず、湊人はピアノを弾き続ける。
 どうやら肩には剣道の防具一式を担ぎ、手には竹刀袋を持っているらしい。健太と同じ剣道部員なのだろうか。どうして剣道部員が、校舎のすみにある音楽室の前に立っているのだろう。そしてなぜ彼女は歌っていたのだろう。しかもあんなに流暢な発音で――

 逡巡する思いに任せてソロのフレーズを加速させ、再び歌のコーラスに入った。
 
 けれど歌声は聞こえなかった。窓の向こうに彼女の姿はなく、湊人はピアノを弾く手を止めた。