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幻燈館殺人事件 後篇

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* 16 *


「そうして、厨房の地下にあるワインの保管室に向かい、九条千代を守るように抱きかかえて眠る優男を見つけた、というわけだ」
 幻燈館で坂上蛍を拘束した三日後。
 蜂須賀直哉は、帝国大学民族学部棟の三階にある助教授・花明栄助の個室で、粗悪な三級品である応接セットに身を預けていた。
 蜂須賀は、話はこれで終いだとばかりにほうじ茶を口に運ぶ。
 すっかりと冷め切ったほうじ茶は飲むときに音を立てる必要がない。それゆえ静かに喉を通り行くのだが、蜂須賀は音を立てずに飲んだほうじ茶に対しそこはかとない味気なさを感じるようになっていた。
「僕が閉じ込められている間に、そんなことがあったんですね。取調べの刑事さんは、本当に何も教えてくれなかったもので」
 部屋の主・花明栄助は、神妙に言葉を発した。
「そう言ってやるな。知らないことは話せないものだ」
 花明に対しては、不運な事件に巻き込まれた被害者として聴取が行われた。故に、聴取担当の刑事が事件の詳細を語ることなど有り得はせず、何一つ事情を知らぬ刑事による形式的な聴取のみ行うように仕向けた張本人が目の前に座っていることも知る由もない。
 蜂須賀は、九条千代の両親について花明に話さなかった。
 花明は政治ができる男ではない。相手の立場を考慮し、体面を立て、利益を約束する。そんな根回しができる男ではない。
 九条ほどの巨大財閥で事件が起きたとなれば、利権拡大を狙う権力者たちの介入を避ける術はない。組織的な介入から個人が身を守るためには、巻き込まれないこと、利用価値がないと思わせること、つまりは何も知らずにいることだ。
 発言権を持たない対外的な名目上用意された傀儡の後見人であれば、率先して手を出すこともない。そうして後回しにされている間に、片付けてしまえばいい。
「次はお前の番だぞ、花明。どういう経緯で閉じ込められたのか、そして、あの地下室で何が起こったのか、聞かせてもらおう」
「そうですね。でもその前に、お茶のおかわりはいかがですか?」
「冷めるまでに話が終わるならば」
「準備している間に話し終えてしまいますよ」
「では、話し終えてからにしてくれ」
 花明は湯呑みに伸ばしかけていた手を止めた。
「地下室には、自分で入ったんです。地下室のワインセラーを出ようとしたら、扉が開かなくなっていましてね。あのときは本当に驚きました」
「坂上蛍の供述と一致する」
「正直なところ、何かの事故だと思っていたんです。意図的に閉じ込められたなんて思いもしませんでしたから、誰かに気付いてもらおうと必死で大声を出して、扉を叩き続けました。『花明栄助がここにいます!』と叫びながらですね。しばらくして千代ちゃんがやってきたんです。扉越しにですが、話をしました。どうやら僕を父親だと勘違いしていたようです」
「花明を父親だと?」
「千代ちゃんが四歳のときでしたからね。怜司さんが幻燈館を出たのは。しがない助教授の僕が九条の次期総裁の後見人なのですから、何かあるのでは考えたのでしょう」
 それでは裏のつながりを暴いてくださいと言っているようなものだが、子供の浅はかな考えと一笑に付してしまえるほど九条千代の境遇は単純なものではない。
「あの子の父親が花明であったのならば、母親は誰なのだろうな」
「止しましょう。千代ちゃんの両親は怜司さんと代美さんです」
「そうだな。冗談には過ぎた」
「いえ」
 花明は困ったような笑みを浮かべて話を続けた。
「僕の口から父親だと言わせたかったのだと思います。それには閉じ込めたままの方が都合が良かった。だから他の誰にも知らせなかった。あのワインセラーは、千代ちゃんにとっての秘密の隠れ場所だったようで、食べ物と飲み水が隠されていました。千代ちゃんが隠し場所を教えてくれたおかげで、飢えずに済みましたよ」
「結果として、守られていたわけだな」
「そうですね。蜂須賀さんの話を聞いた限りでは、閉じ込められていなければ、僕は毒を飲まされて誰かを傷つけるか自傷するか、そのどちらかを行っていたでしょうね」
「恐ろしい話だ」
 蜂須賀は肩を竦めて見せた。
「本当にそうです」
「坂上蛍は彼女に毒を飲ませたと言っていたが」
「はい。『その娘には毒を飲ませた。殺すか殺されるか、好きなほうを選ぶんだね』と言っていました」
「殺戮衝動は起きなかったのだな」
「残っていた飲み水を使って、胃の中の物を吐き出させました。そのあと、千代ちゃんには眠ってもらいました。それが功を奏したのでしょうね」
「どうやって眠らせた? 子守唄でも歌ったのか?」
 花明は緩やかに首を横に振る。
「いいえ。ワインセラーには睡眠薬入りの白ワインが貯蔵されていますから、それを飲ませました」
「なぜそんなものが?」
「桜子さんですよ」
 花明の声に一筋の影が落ちる。
 一之瀬桜子。
 十年前、幻燈館において九条代美を殺害し、九条怜司と共に姿を消した人物。
 その六年後、帝都において花明の前に姿を現し、自らの存在を消そうとした人物。
「そもそも僕は、その睡眠薬入りの白ワインを処分するためにワインセラーに立ち入ったんですが……」
 そこで花明は言葉を濁した。
 九条代美を殺害するために用意された睡眠薬入りの白ワインが、十年の時を経て花明と九条千代の命を救ったのだ。万感胸に迫るは当然のことだ。
 遠くに想いを馳せる花明を、蜂須賀は見守った。自身の表情が綻んでいることに気付くことなく。
「それにしても、だ」
 何の発端もなく、けれど、今しかないというその刹那に、蜂須賀が口を開く。
「助手の一人でも用意したらどうなんだ?」
「どうしてです?」
 花明の純朴な問い返しに、蜂須賀は部屋を見渡すような仕草で応えた。
「性格上、資料の整理整頓などの雑用を他人に任せられないのだろうが、自分で整理する時間を捻出するためにも、任せられることを任せられる者がいたほうがいい。掃除も安易に頼めていないのだろう?」
「そうですね。時折、千鶴さんが掃除に来てくださるんですが、勝手に動かされては困るものばかりなので、掃除をしてもらうために掃除をしなければならない有様です」
「千鶴さん……だと?」
 蜂須賀は敢えて下品に、ふふん、と鼻を鳴らした。
「なんですか」
「いや、見直したぞ花明。掃除をしてくれるような‘いい人’がいたのだな」
「何について見直したのかは言及しませんが、千鶴さんは教授のお孫さんですよ」
「なるほど。そういうことか」
「納得したようには見えませんが。何か良からぬことを考えていませんか?」
「うん? そうだな。実は一つ決め兼ねていたことがあってな、その相談もできればと思っていたのだ。だが、その必要はなくなった。」
 事態が飲み込めずに目を白黒させるばかりの花明を尻目に、蜂須賀は話し続けた。
「今回の事件が起きたことで、九条の財を狙う輩がいることが分かった。正式に次期総裁となった九条千代は、その矢面に立つことになる。如何に奇咲蝶子よる英才教育を施されていたとしても、弱冠十四歳だ。九条総裁の重責を負うには尚早だ。そこで、養女として迎え入れ、しばらく匿うことにした」
「僕に相談しようとしていたこととは?」
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近