カクテルの紡ぐ恋歌(うた)Ⅴ
一般部隊ではもちろん、防衛省内でも、上司のことは、役職名で呼ぶか、苗字に階級を付けて呼びかけるのが慣例だった。第1部長を「さん付け」で呼ぶのは、美紗にとっては、なぜかとても敷居が高いことのように思えた。
「何か…ちょっと、変ですよね。日垣1佐……」
日垣が含み笑いをしながら美紗をじっと見ていた。美紗は仕方なく、「日垣さん」と小さな声で言い直した。まるで、ずっと想いを寄せていた男性を初めて下の名前で呼んでしまったような、戸惑いと恥ずかしさを感じた。ほんのりと紅潮した美紗の顔を、階下につながる階段の薄暗さが、さりげなく隠してくれた。
******
「その時、たぶん、私、日垣さんのこと、好きになったの」
ぽつんと言った美紗は、頬が少し温かくなるのを感じた。今は、篠野さんのカクテルを飲んでいるせいだ、と思った。
「そっかあ!」
征は満面の笑顔を浮かべ、落ち着いた店の雰囲気には全くそぐわぬ大きな声を出した。
「この店で生まれた恋って感じですよね! うわあ、何か嬉しいです僕! 何か御馳走させてください!」
藍色の目を輝かせ、テーブルの上に置いてあったメニューを取った征を、美紗は憂い顔で止めた。
「私には、きっとこの『秘密』のカクテルが合ってます。日垣さんを好きだなんて、大きな声で言えないから」
シンガポール・スリングの入っていたグラスの中で、氷が寂しげな音を立てた。
「何でですか? 日垣さん、いい人じゃないですか。上司だから? 同じ職場だから? そういうのダメとかいう規則があるんですか?」
無神経な質問を連発する若いバーテンダーに、決して悪気はなかった。美紗は困った顔で、黙っていた。
「年がすごく離れてるから? そんなの関係ないじゃないですか。三十くらい年が離れてても結婚する人たちだっているでしょ?」
征が無造作に口にした「結婚」という言葉が、今になって胸に刺さる。あの人と結婚したいなどと思ったことは、一度もない、はずだった。
あの人がこの街を去るまでの恋なのだと、初めから承知していたのだから
作品名:カクテルの紡ぐ恋歌(うた)Ⅴ 作家名:弦巻 耀