睡蓮の書 四、知の章
下・真実の名・4、大樹の下で
葦の野原に、ひとりで立っていた。
見渡す限りの緑。肩ほどの丈の葦。空はただぼんやりと明るい。
葦をかきわけ進むとしばらく、河に出た。子供の頃よく遊んだのと同じ河。
ふと向こう岸を見ると、一本の大樹があった。
それは古くからずっとそこにあるように堂々と、深い皺をいくつも刻んだこぶだらけの幹でどっしり立っている。そこに嵩のように被さる葉はもうずいぶんと藁(わら)色で、いくつも腕を垂れるように連なり、けれど先のほうにはまだまだ若い萌黄色が覗いていた。
その影に、人の姿をとらえた。
すぐに兄弟だと分かった。そしていつの間にだろう、自分もその樹の下に同じように立っていた。
名を呼ぶ。先に声をかけたのか、声をかけられたのか分からない。そのときは、こちらが自分かあちらが自分かはっきりしないで、けれどそれを奇妙とも思わなかった。
彼は握った手をすいと差し出した。返すのだと、そう言った。両手のひらで受け取ったそれはひんやりと冷たかった。
小さな黒い石だった。ぼそぼそと自ら煤(すす)を吐きだすそれはまるで生き物のようで、黒い煤を吐いた部分からときおり、紫色をした鮮やかな彩がちらと覗いた。と、すぐまた煤に隠れてしまう。もう一度見ようと、息を吹きかけたり傾けたりするが、なかなか見えてこない。何度もそうして、どうにか彩を見たいと思った。ふしぎとひきつけられる石だった。
これは何。問おうとして顔を上げたとき、目の前にあったはずの樹はもうなく、はじめにいた場所、群生する葦に囲まれ、ふたたび、ひとりになっていた。
あそこにもう一度行かなくては、そして会わなければ。けれどどれだけ見回しても、そこにはもう、河も、あの樹さえ、見当たらないのだった。
葦がゆれる。いくつも重なるその音は、まるで大河の水を生むという急湍の渦のよう。
ざあんざん、ざざあん。
ざあんざん、ざざあん。……
――――
(……まぶしい)
鋭い陽光に、開いたばかりの目をまた閉じる。
明るいのは当然だ、朝なのだ。あの音は森の木々の葉摺れだったのだろう。
(またこの夢に戻ってきた)
同じものを見たはずだ。どうも夢の中でぐるりと一巡りしたらしい。
すっかり長く寝すぎてしまった、そう思ったが、身体がだるく起き上がるのが億劫に感じた。やはりもうひと眠りしようか。そう考えてシーツにもぐりこんだとき、戸のきしむ音がした。
誰が来たのかよりも、ここがどこなのかと疑問が湧いた。自室ではないことに気づいたからだ。木々のざわめきがこんなにも近いので、南には違いない。シーツから顔を覗かせ見慣れぬ部屋を眺めると、やってきたシエンと目が合った。
そのとき彼は少し奇妙な反応をした。表情に浮かべた安堵は、すぐに驚きに取って代わられた。
「キレス……」と、どこか戸惑ったようすでシエンは言う。「力が、戻ったのか?」
訊ねながらじっと目を見つめるので、キレスは何かの勝負事のように、その視線を避けまいと見つめ返していた。そうしながら、彼に言われた言葉の意味がじんわりと入ってくる。
夢の中の話ではなかったのか。力を失ったなんて。
(じゃあ、どこからが夢なんだ)
キレスは改めてその部屋を見回した。見たことがない部屋だ、けれど中央にあったものとよく似ている。簡素な寝台がいくつか並べられた、殺風景な部屋。いったい自分はなぜここにいるのだろう。
キレスは起き上がった。と、体中に茶褐色の染みがまとわっていることに気づく。……眉を寄せる。胸に暗雲が立ち込める。
しかしそれを奥に押しやって、彼は自身の力を確かめるためふわりと浮いてみた。今までと変わらない、意思を具現化する力。あまりに自然であるから、これがないということが想像しにくい。
失っていたというのはやはり夢なのではないか。シエンが言わなければ、疑いもしなかったろう。しかし本当に夢でないのなら、あの、「月」の力を取り出す儀式はもう終えているはず。では、未来の様子を映したあの夢を見たのは、いつ?
キレスは寒気を覚え、ぶるぶると頭を振った。と、背にかかる黒髪がさっぱり切られていると今更気づく。
……記憶を時系列に並べ確かめることを、彼は拒絶した。見ないふりをしようとした。
「ケオルは?」
そうして何気ないふうに訊ねたとき、シエンのはっと言葉を呑む様子。
……それ以上は必要なかった。
キレスはすぐに地下の礼拝室に向かった。乱暴に扉を開け放つと、冷やりとした空気が流れ出る。
肌をまとわるその空気に刺激され、キレスは何もかもを確かにした。未来を見た夢すら、もう夢ではないのだと、知った。
灯りの届かないその部屋の奥に、大きな長方形をした玄武岩製の台がある。それに近づき彼は光を灯す。朝であるのにまるで真夜中のようなその空間に、最もふさわしい光が、静かに台の上を照らし出した。
――分かっていたのに。姿を目にしたとたん、その衝撃は大きく広く自身を打った。
骸。ただ遺されたもの。月神としての感覚がそれを望まずとも確かにする。腹部に開いた傷痕が、そこから流れ出ただろう血液の黒々とした痕跡がなくとも、いやそれ以上にはっきりと、そこにはないと感じられる――否、何も感じられないことそのものが、事実を明確に伝えていた。
安らいだ表情はしかし眠っているのとは違う。今そこには明らかに無い。もう既に去ってしまった。ここにいない。戻ることもない。幾重にも突きつけられるその意味を、キレスはしかし知ろうとしなかった。感情が深い谷間に墜ちかけ、それを無理矢理に引き戻す。そうしたことを何度も繰り返し、それが「何」であるかを受け入れない。分かってしてしまうことを避けていた。
無意識に伸ばされた手が、ケオルの冷たい頬に触れた。まるで本当には誰なのかと確かめるように――そんなことをしなくとも当然分かっていたのに、なぜそうしたのか、キレス自身にも分からなかったが――、顔をこちらに傾ける。と、その口腔からつうと鮮血が垂れた。
暗がりに、ひと筋。その色だけが、鮮明に浮かび上がる。
瞬間、何かがキレスの胸を大きく打ち鳴らした。ぞっと全身を素早く駆け抜けたもの、それは灰色だった世界を彩り鮮やかに塗り替えてゆく。意識は急激に絞られ、瞳が大きく開かれた。扉がさっと開け放たれ、鋭く光が差しこむと、重く沈殿していたものが払われてゆく。よどんだ場所に北風が駆けぬけ、そこに花や新緑の心地よい芳香が満ちてゆく。
自然にほうっとため息が漏れた。あの感覚――忘れ去ろうとしていたあの、強烈な快の感覚がよみがえったのだ。その歓びが身を震わせ、その感覚を体中に行き渡らせた。口元が自然にほころぶ。それを余さず受け止めようとするように、キレスはうっとりと目を閉じる。
これだ。と彼は思った。胸を満ちるこの温み、染み入るような憩い。なんという歓び。なんという幸福。これを、いまふたたび取り戻した。求めてやまないあの感覚を、こうして、ふたたび手にすることができた――
……ひゅっと息を呑み、我に返る。
表情は瞬時に凍りつき、歓喜に代わり戦慄がその身を震わせる。
キレスはゆっくりと頭をふった。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき