小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

睡蓮の書 四、知の章

INDEX|41ページ/48ページ|

次のページ前のページ
 

下・真実の名・3、夜霧に霞む



「なんだよその、わざとらしい溜め息」
 ケオルが言うと、キレスはこれ見よがしにもう一つ溜め息をついてみせた。
 二人は中央神殿の入り口へとつづく石畳の路を歩いていた。儀式が始まって数時間、南の中庭を暴れまわっていた炎も勢いを失い、結界を静かに包むばかりになっていた。あとはじわじわと時間をかけて引き出してゆくだけなのだろう。結界は今も保持されたままだが、内側の様子や変化が見えてこない状態が続いた。半日はかかるということで、それを見計らって南を出たのだ。
「なんで移動にこんな時間かかんだよ……ありえねえ」
「しょうがないだろ。第一、取りに行けって言ったのはお前自身じゃないか」
「お前がうるさいからだろ! そんなに大事なら忘れんなよ、やる気ねえのかよ」
「ああ、もうすっかり忘れてた。お前が放り投げた箱の中身が気がかりすぎて」
 互いに悪態をつきながら、同じ歩調で石畳を踏む。日暮れのころ、高い塔門の上に広がる藍染の空には、もう星々が小さく瞬いている。
「だいたいケオルお前、月属の術を研究してるんだろ。使えばこんなもん一瞬じゃねえか」
 自身の力で自由に行き来していたキレスにとって、知属が移動のために文字を書き連ねる行為が信じられないほど手間に映った。苛立ちを交えそう言い放つと、ケオルは何か言いたげに口を開きかけたが、結局言葉にしないまま黙ってしまった。北で一度試した月属の術は、どうやらあれからうまくいっていないらしい。思いのほか沈んだ空気に、キレスは居心地悪そうに肩をすくめると、思いつきでこんなことを言った。
「これを持ってないからだ」
 そうして黒い革ベルトの間から取り出したのは、紅玉髄のビーズ帯だった。
 ずっと首元を飾っていた紅色の帯。南の森で外してからは一度も身につけていない。これがあるとすぐに自分だと気づかれるためだ。とはいえどこへでも置き捨てる気にはなれず、こうしてひそかに持ち歩いていたのだった。
「せっかくお前にやったのに、返すなよ。これが無いから術がうまくいかないんだって」
 そう言うと、根拠などないことをすっかり見透かされているのか、ケオルは意図がつかめないといった様子で「俺に?」と首をかしげる。
 キレスは答えに窮した。紅い色を望み幼少期に与えられたそれは、渇望が消え失せた今、ずっと身に付けたままでいるのも滑稽で、またいつまでも変わることができないのはこのせいだと勝手に決め付け、遠ざけたいと思っていた。けれど捨ててしまうのもどうにも忍びない。ちょうど次の居場所として都合がよいといった具合だろうか。
 しかしそれでは理由にならないどころか、言葉にするのも面倒に感じ、キレスはケオルの腕に巻きつけるようにして強引にそれを譲り渡した。
「前にもあったような気がするな、こういうこと……」
 ケオルはそう言って、薄闇に朱色をにじませるビーズ帯を手にとり、しげしげと眺めていた。もしかしたら本当にこれで月属の術がうまくいくかもしれない、とでも考えているのだろうか。そう思うとなんだか可笑しくて、キレスはふっと笑みをもらす。
 すると、ケオルもつられたように笑って、戯れにその飾りを自身の首もとに結びつけた。そうして言うのだ。
「兄貴も間違えるかもな」
 キレスは呆気にとられ言葉を失う。まだそんなことを言っているのか、と思った。自分は彼がするように、それを望んだり喜んだりはできないのだ。まるで共感できない。……けれどもなぜだか、以前抱いたような断絶――同じ場所にあっても見ているものがまるで違っているという認識――は影を潜め、今はその代わりに、変わらないもの、変わる様子のないものへの安堵がじんわりと胸を占めていた。
「ほんと、好きだな。お前」
 自然と言葉が漏れた。その言葉どおりの感情があった。ただそれだけのことが、このときキレスにはずいぶんと清々しく感じられたのだった。
 やがて二人はそびえ立つ塔門にたどりつく。キレスは門の前に立つと、いつものように手を掲げ、その扉に触れようとした。が、ぴたりと動きを止めると、
「……俺もう南の代表じゃなくね?」
 代表となるものに応じて扉は開くが、今の自分にその権限はあるのだろうか。力を失って代表のままでいる意味などないはずだ。
「どうだろう」と答えてから、ケオルは「でも今は特殊な状況下だから、別の封がしてある」言いながら腰に下げた小さな麻袋の中をまさぐる。
 案の定、扉の封を解くにもまた時間がかかりそうだ。キレスはみたび大げさに溜め息をつくと、くるりと背を向けぶらぶらと歩き出した。もともと暇だからついてきてやっただけなのだ、面倒なことは全部やらせておけばいい。
 面倒。本当に、面倒ごとばかりだ。力があったときには一瞬でできた事柄に、わざわざ時間をかけ手間をかけないとならない。忘れ物なんて、イメージさえできればこんなところまで来る事なく手元に寄せることができたのに。
 南でそうした面倒ごとの骨頂ともいえる書字を眺めていたとき、キレスは漠然と、自分の中で時の流れる速度が変わってしまったのだ、と思った。それはひとつの大きな気付きだった。これまで素早く望みを実現できていたために、流したり通り過ぎたりしていたさまざまな、自分の外側にあるものが、あまりにゆっくりな時の中で、どうしても目に入るようになる。そうした中でキレスは、最も身近にあるものが、過去に見えていたものと違って見えるように感じていた。
 十年前、兄弟と知らず南で出会った頃、ケオルは一人でなんでもできるのだと思っていた。いつでも先を歩いていて、自分はそれについていけばいいのだと、そうして頼っていた。その後自ら道を違えてみたけれど、彼はいつでも前にいるように感じていた。……それがいつの間にか、すぐ隣にあったのだ。近づいてみると思ったより心許ない。この忘れ物だって、自分が取りに行けばいいと言ってやらなければ、彼は時間を無駄にしたといつまでも悔やんでいただろう。
 結果キレスにとってはより面倒ごとが増えた。一緒に行くかと訊ねられたときなぜ断らなかったのだろう。何もすることがない、待つだけというのはまったく面倒なことだ。それが分かっているのに――ただ、あんなふうに嬉しそうにされたら仕方がない。
(ほんと、しょうがねーな)
 キレスは天を仰ぐ。西の山際はまだほのかに茜色をたたえ、その下には水嵩を増した夏の河が、塔門からまっすぐ伸びる石畳を飲みこんでいる。水面から流れてくるらしい冷たい空気が肌をなでるので、キレスは肩にかけた薄手の亜麻布を手繰り寄せ、小さく身震いした。髪を切ったことを少し後悔もした。
 風が吹くのか、砂の摺れる音が、乾いた草木のざわめきが聞こえる。耳障りだな、そう感じてキレスが振り返ったときだった。目の前に大きな影が揺らぎ、空のかすかな残り火がその輪郭をうっすらと浮かび上がらせる。
「!」
 人影。それと分かったときには既に目前に迫り、眼光がぎらりとこちらを捉えていた。戦慄――そのとき鈍い光が素早く宙を裂くのを捉え、キレスはとっさに顔面を覆う。
「……ッ!」
 身を仰け反らせたが避けきれず、腕に痛みが走る。そのまま地に背を打ちつけたキレスを振り切り、それは素早く身を翻し駆け出していた。