睡蓮の書 四、知の章
「書写、手伝ってもらえると助かるんだけど」
キレスは気だるげに、仕切壁の上で組んだ腕の中に顔をうずめる。
「……楽しいの、それ」
「それは、やってみないと分からないだろ」
ちらりと目を上げると、ケオルは返答を促すように、首を小さく傾げた。
やってみないと分からないと言うが、気持ちは動かない。書をかき写すことは地味で変化もなく、心が動くこともなさそうな作業だ。そうしたことを、なぜ彼は当たり前のようにやってのけるのだろう。彼のように元々力を持たず、そのためあの強烈な快の感覚を知ることがないものにとっては、小さな快をどうにか拾い上げ、それを大切にするしかないのだろうか。
小さな。そう思えるほど大きかった。今は得られぬあの感覚、その価値は。
小さなもので満足せよと。それを受け入れるのが容易でないのだ。あの感覚を忘れ去ってしまえばできるだろうか? 忘れる――そんなことが本当にできるのか。また虚しさが胸に這い上がる。キレスは知らず、ため息を吐き出していた。
「まあ、無理にとは言わないよ」
何を勘違いしたのか、ケオルが応えた。「でも俺は、お前に文字を覚えてほしいと思ってる」
「なんで?」
顔をわずかにしかめ訊ねると、ケオルはこう答えた。
「お前が考えてることを知りたいから」
こっちは別に教えたいとおもわない。心の中でつぶやくが、キレスはそれを声にしなかった。気遣ったのではなかった。ただ何となく、それは自分の本当の気持ちと違うのだと、無意識が否定しているようだった。
「声にすることが難しくても、文字にはできたりするもんだよ。面白いよ、文字って」
ケオルはひとり話し出す。キレスは黙っていた。特に聞くわけでもなく、ただ彼が話す様子をぼんやりと眺めていた。いつものように――何も変わらないのだと、まるで自身の変化を無視するかのように。
それにしても、とキレスは思う。彼はなんと楽しそうに話すことだろう。生き生きとしたようすで。気持ちが自然にあふれ出るのだというように。すこし遠くを見て、すこし熱っぽく。
心がざわついた。小さなこと、それだけでこんなに嬉しそうに。
こんな、小さなことに――キレスは思う。本当にそれで足るなら、こんな気持ちを虚しさを、ずっと抱えずにすむのだろうか。
「それに、」ケオルは言う。「自分の中でよく分からなかったことも、言葉を知り文字にしてみれば、なぜかはっきりと分かるようになったりする。分からないことが、分かるようになるのは、分からないよりずっといい」
……分からないことが、分かるように。たくさんの分からないことが、少しずつでも分かるようになれば、何かが違ってくるのだろうか。
気づくとケオルは期待をこめた目でこちらを見ていた。ふうんと返事をしてやると、彼は語り足りたようすで息をつき、
「まあ、書くのが面倒だったら、まず読んでみるのもいいかもな。とりあえず、行こうか」
「は? どこに」
「俺の部屋だけど」
来るんだろと、もう決定したことのようにケオルが言う。
「やるって言ってないんだけど?」
「やらないとも言わなかったから」
……なんだこいつ、また。相変わらず強引だ。断ってやればいいのだ。そう思いもしたけれど、それをしなかったのは、返事をするのも面倒に感じていたから、では、なかったかもしれない。
「それに」
と、ケオルは続けてこう言った。「寂しいだろ、ひとりだと」
その言葉に、キレスはぽかんと彼を見る。なぜそんな言葉が出てくるのか分からなかった。あまりにも唐突だと思った。
「お前が?」
目をぱちぱちとしばたき訊ねると、ケオルはすこし意外そうに目を丸めてみせる。
それから、「そう」と観念したふうに、笑って言った。「寂しいから。俺が」
そのとき、なぜだろう。キレスの胸のうちに、何か判然としないものが届き、乾いた地面に水が染みるように、じんわりとその跡を残した。胸が小さくざわつく。快か不快か、そのどちらでもあるというように、揺るがすもの。
それは、やがて静かに、形をなくしていった。
遠ざかるケオルの、その背に覚えたものをなんと言うのか、彼はよく知らない。ただ胸を衝く何かに急かされるように声を上げていた。
「しょうがねえなあ」
振り返った兄弟に、キレスはにっと笑みかける。
「行ってやるよ。けどちゃんと教えろよ。わかり易く、だぞ」
ケオルは肩をすくめてみせながら、嬉しそうに笑った。
*
じゃあいくよ。中庭に集う神々にそう言うと、ラアは両手を掲げた。
上空に浮かぶ闇が低く鳴動しぞわぞわと繊毛のようなものを躍らせる。と、そこへすうと赤い鳥が飛んできて、まるで誘われるようにそれに呑まれてゆく。途端に闇から炎が噴き出し、中庭は業火につつまれた。
肌を焦がす熱を感じながら、カムアは息をのんでそれを見守っていた。守護系統の力がないはずの火属の長が協力するというのは、なるほどこのためかと思った。炎は次第に彼らのもとに集約され、しかし完全におさまることはないようすで、地属と風属の長がその内側で保持している結界のまわりをまとわっている。
結界を打ち破らんと盛る炎にラアの姿が隠される。それをどうにか捉えようと、カムアはじっと目を凝らした。
「心配か?」
声をかけたのはジョセフィールだった。振り返ったカムアは無言でうつむく。ジョセフィールはそれに並んで立ち、同じように中庭を眺めた。
「ジョセフィールさんは……心配ではないんですか」
大切な友人が危険な場にあることが。見上げて訊ねたそのとき、炎が勢いを増し大きく渦を巻いた。カムアはその不自由な手で仕切壁に必死でしがみつき、ぎゅと目をつむる。それは焦げ付いた匂いを残して次第に収まった。恐る恐る目を開くと、ジョセフィールは隣で静かに中庭を見据えていた。
「わたしの友だ。やり通せぬはずがない」
そのまま口元に微笑を浮かべ、彼はそう答えた。そうだ、とカムアは思う。ラアならばきっとできる。ラア自身がそう誓ったのだ、できないはずなどない。自分はただそれを信じるだけ――けれどそれは、ジョセフィールが彼の友人に対して思うものとは、また違う形をしているかもしれない。そうも思った。
「ホルアクティは」ふいにジョセフィールが口を開く。「ハピ同様、アク《聖霊》とならずに封じられていた。それを解くことはその個を、意思を蘇らせることになろう」
「力を得るために?」
そう訊ねると、ジョセフィールは首を振り、「力を得るのではない。人格を引き受けるのだ、現太陽神の内にな。それが刺激となり、潜在的なものがより引き出されることもあろう」
はっとした表情で、カムアはもう一度ジョセフィールを見上げた。ホルアクティを目覚めさせ、その力を手に入れるのだと、そう思っていた。しかしラアがその身に取り込もうとしているのは、ホルアクティの力などではなく、その人格であるという。
「それじゃあ……ラアはいったい、どうなるんですか?」
「さあ、どうなるか」ジョセフィールはまた中庭を眺め見ると、「生命神は居を共にしたようだが。うまく同居できるか、呑まれるか――」
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき