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文目ゆうき
文目ゆうき
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睡蓮の書 四、知の章

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下・真実の名・2、空虚な



 がらんとした部屋を見渡し、ケオルは書物をつめこんだ鞄を下ろす。
 南へは、シエンに連れてもらった。一緒に来たキレスは、何も言わず一人でさっさと自室にこもったようだ。シエンはまだ人が揃っていないとわかると、儀式までできるだけ身体を休めておきたいと言って部屋へ向かった。
 儀式を終えるまでの十日間、ここにいるつもりで来た。儀式についての記録をとる必要があるだろう。時間が空けばやりかけの仕事を進めるつもりだ。――いや、記録をとるなど口実なのだ、そんなことは分かっている。
 部屋は以前のままで、書板やペンには布がかけられている。布を省くと埃が舞い上がった。咳込みながら扉を開け放つと、中庭が見える。ケオルはそのまま廊下を横切り、中庭を囲う低い仕切壁に手をかけ上空を仰いだ。あの闇色の球体が、午後の晴天にぽっかりと穴を開けたように浮かんでいる。
 視線を戻し、ぐるりと中庭をそして向こうの柱廊を眺めた。兄の姿を探しているのだと、自分でも理解していた。十年前から変わらないこの風景。仕切壁の向こう側を、あの時は背伸びをしても見られなかった。兄が向こうに何を見ているのか……それは成長してからもずっと分からないままだった。
 今それが、自分には分かりようないものだったと知る。分からないのは同じなのに、けれどずいぶんと心持ちが違う。
 あの人は兄ではないと。事実を知ったときから、これまでの認識の誤りを正そうとしてきた。何より偽りは省かれるべきだと、そうしなければならないと考えるからだ。それははじめ強い嫌悪と拒絶の繰り返しだった。憎むことで遠ざけ、意識から追い出そうとした。けれどどうしたことか、憎もうとすればするほど、責任を転嫁しているだけなのだと知らされ、遠ざけようとすればするほど、その意識が逆にそれへの執着を強めてゆく。追い出すどころか、意識に張りついて離れない。何度も何度も、引き剥がそうとして絡め取る、その繰り返しだった。
 がんじがらめになり疲れ果て、もうどうでもいいと投げてしまったとき。それらがふっと解かれ、そうして何の思考も引き寄せずにいると、意識の奥から微かに声が湧く。――得てきたものがある。その事実まで否定しようとするのは、あまりに不当ではないか、と。
 目の前が開ける思いがした。否定などできるはずがないのだ、兄がなかったなら自分は今のようにはなりえなかった。つながりは架空のものでも、得たものは事実である。虚でないそれを抱くことくらい、自分に許してやってもいいはずだ。無理に切り離す必要などない。第一、切り離すには自分にとって大きすぎるのだ。
 その人を兄と呼ぶのに、血のつながりは必要だろうか。自分にとってそれは真実だった、事実でなくとも真実だったのだ。それだけで十分なはずだ。
 昨夜ここ南を訪れ兄に会った。中庭に立つその背に呼びかけるのに勇気が要った。ためらいがちに漏らした自身の声に励まされるように、もう一度、兄貴と呼ぶ。兄はいつもより少し長く間を空け、それからわずかに振り返った。再びそう呼ばれると思いもしなかったのか、それとも、そうした関係を作り出していたという意識すら不要と捨てていたのかもしれない。
 向こうに戻るのか、と訊ねた。兄は無言で上空を仰ぎ見た。そうだ、この儀式が終われば戻るのだ――予測していたとはいえ胸が激しくざわついた。感情の波をどうにか抑え、そうかと呟いてから、何か言わねばと言葉を探した。湧き出す感情のどれを拾うべきか迷ううち、幼い頃の話をしていた。初めて教わったこと、あの時声をかけてもらえなければ、本当に知神を志すことは無かったかもしれないと。すると兄はこう言ったのだ。お前が訊ねたのだと。声をかけたのではなく、訊ねられたからそれに答えたのだと。……愕然とした。そんなことすら、自身の都合のよいように記憶を書き換えているのだ。あまりに滑稽だと、嘲るような笑みが漏れる。
 それ以上はもう言葉が浮かばなかった。踵を返したその背に兄は言った、キレスは目覚めるだろうと。それだけだった。すると先ほどとはまた違うものが胸をざわりとめぐる。けれどそれは少し軽くも感じた。自分の中で書き換えたものが事実のとおりだと保証されたように思えのだろう。そして、それを求めて来たに違いなかった。
 あれからまだ一日と経っていないのに。けれどもう、最後になるだろうから。
 ケオルは仰いだまま目を閉じる。まぶたに陽を受ければ、目の前が赤く燃えたぎる。緋色のもやに紅がまとわって、激しい炎のように見える。その色に憩いを覚えるのは、兄の眼を思うからだろうか。……この色はきっと、キレスの好む色と同じだろう。その赤は事実、まぶたを造る血肉の色なのだ。
 一度瞬きするともう、魔法が解け去るように色が失われる。ケオルは短く息をついた。と、廊下の奥に響く足音にはっと振り返る。
 兄の姿はなかったが、こちらへ近づく別の人影を見つけた。ヤナセだ。声をかけようとしたが、しかしどうも様子がおかしい。笑顔はなく、慎重に探るようにこちらを見ている。
「……なにか、あった?」
 声を潜めてたずねると、ヤナセはひとつ瞬いてから、
「ケオルか?」と言う。
 なぜ疑問符がつくのかと首をかしげていると、ヤナセはふうっと大げさに息をつき、力をこめて肩に手をかけてきた。
「お前たち、いい加減にしろ。どうして同じ格好をしているんだ、紛らわしい」
 理由が分かるとケオルは声を立てて笑った。
「キレスに会った? あいつもう寝てるのかと思った」
 午後はいつも睡眠に時間を充てている彼のことだから。けれどもしかしたら、寝飽きているのだろうか。
「まんまとやられた。お前だと思って呼ぶと、無言で目を逸らされた」
 自分で仕組んでおきながら、と言いかけ、ヤナセははっとしたようにそれを呑み込んだ。そうだ、彼は目を逸らした。
「キレスはまるで、元に戻ったようだな」と、ヤナセはしみじみと言う。
 ケオルはキレスの部屋のある、向こう側の柱廊の奥を見遣った。力を失ったキレスは確かに、自分でもどきりとするほどそっくりだ。十年前ここで出会ったときの感覚が再起される。兄弟とも知らず過ごしたあの頃。
「元が何かはよくわからないけど、前に戻ったようには見えるかも」
 本当のところはどうだか知らない。自分は彼でないのだからそれは当たり前だし、それでいいのだとケオルは思った。
 キレスに対する感情が以前よりずいぶんと中立的なものになっているのを感じていた。考えるたび針が突くような感覚は消え、少し淡白になったとも思える。けれどけして悪い感じはしない。
 以前はキレスの問題をまるで自分のものであるかのようにとらえ、同時に彼を自己承認の手段ともみなしていた。まるで道具のように――自分こそがそうだったのだ。その事実に向かい、けれどそれをやめようとはしなかったはずだ。どうしようもないのだと、そうすることしかできない、ただ事実そうなのだということをはっきりと認めた。するとなぜだか次第にそれへの執着が解かれ、これまで自分には無いのだと思っていた感情がそこに自然に湧くようになる。