睡蓮の書 四、知の章
それから南へ向かい、横たわるキレスを目の当たりにしたとき、本当に生きているのかと疑わずにいられなかった。激しい困惑のうち、シエンは地属の力で、どうにか回復の助けになればと考えた、しかし、傷口も見当たらず、何をどう施すべきか分からない。掠れ沈んだ肌の色を、また硬く閉じられたその目を映すたび、冷静に思考をめぐらせることが困難になる。
できることなどない――そのとき、脳裏にあの言葉が、冷ややかに打ち鳴らされたのだった。
「……」
シエンは長椅子に背をもたせ、苦しげに目を閉じる。
一昨日も昨日も、南を訪れた。けれど、変わらぬ様子を見るたび、なにかが喉元に這い上がり、ぐっと締め付けてくる。それが、向かう足を重くさせたのだろう。……今日は、行っていない。
もしかしたら、と、シエンは思う。ケオルはこうした感情に捉われるのを避けて、わざと冷たく言い放ったのではないか。そうしなければ、耐えられないから――
(……そうだろうか)
いや、あの言葉には、感情の冷たさすら感じられなかった。温度のない感情、微かにも揺らぐことのない音。そのことが逆に、ひどく冷たいと感じさせたのだ。
憤りの根にある違和感。シエンは、彼の態度に理由を見出そうとしていた。そうでなければ、……記憶が僅かに封じられていたとはいえ、まるで別人だ。自分の知る彼は、そんな人物ではなかったはずだ。事実、記憶が戻ってからはこれまで以上に、ふたりは強く結びついていたはずだ。まるで互いに分かちがたい存在であるというように。
(双子、か)
そのときふと、シエンのうちに、これまで思い至ったことのない、まったく別の「理由」が浮かびあがった。
もしかしたら彼は、疑いなく、信じているのではないだろうか。
キレスが目覚めるに違いない、いや必ず目覚めるはずだと。それを疑いもしないから、あのように平気でいられるのではないか。
もし、そうだとしたら――こんな、信頼の形が、あるというのだろうか。
自身の考えに圧倒されながら、けれど、おそらくその通りなのだろうとシエンは思う。あの、ふたりならば。
(……敵わないな)
キレスとケオル。そっくりな顔をした、けれど性格はまるで正反対のふたり。彼らは好みも傾向も価値観も、何もかもが違っていて、そのため小さなことですぐに衝突してばかりいた。
そうしたふたりが、しかし驚くほど一致する瞬間がある。声が、言葉が、表情が、ぴたりと重なるその瞬間。ふたりは、鳥肌が立つほど「同じ」になる。強烈に印象づくその一瞬を、シエンは何度も経験していた。そのたび、驚きとそして寂しさが、わずかに胸を焼き焦がした。
誰も、入り込むことはできない。どんなものも、決して。
そうして、彼らの間に確かにある、目には見えない繋がりを、見せ付けられてきたのだった。
だから……、彼らが双子の兄弟であると知ったとき、驚きよりも、合点がいったという感情に近かった。理由が無ければ納得できない。そう、考えていたのかもしれない。
(納得――いったい、何に)
それは、距離だ。自分自身がキレスに感じる「近さ」、その距離が、けれど彼とケオルの間ほどではない、その理由を探していたのだろう。
キレスが持つもの。顔がそっくり同じでも、ケオルにはないもの。それは、彼の表情に、まなざしに宿った。
はじめそれは、記憶を欠いているせいだと思っていた。けれど戻してからもやはり――形はまったく同じでないかもしれないが――それがある。実際には月の性質なのか、また別のものなのか、わからない。ただそうしたもの、その一部が、どこか自分と近いと感じ、それを確かにしたいと思わせた。
彼の持つそれはラアのような、周囲を巻き込み、高く引き上げるものとは違う。他者を遠ざけながら、その意識を絡めとり、離さない。心を乱されるのに、無視することができない。そうして、求めずにはいられなくなる――影に隠れ見えないものを、見たいと欲する、そのように。
隠され、見えず、得体の知れないもの。それは人に恐れを抱かせるものだ。――けれど、自身のうちに同じ影を、わずかにでも自認している者にとって、それはひどく蠱惑的に映る。ひとたび手を伸ばし、それをつかもうとすれば、ずるずると奥に沈み込み、引き返せなくなる――そうした危うさを知りながら、しかし抗うのを難しく思わせる。
それは、何なのだろう。
もしかしたら、とシエンは思う。近いと思わせたのは、彼の性質のためだったのかもしれない。
彼の持つ「何か」と、近かったのではなく、それを通して、自分のうちに隠されたものを、見出だしていたのかもしれない。
外からでは見えてこない、内側のものを。
隠しながらも晒したいという、相反する欲求のために。
そうして、沈んでよいのだと誘う、そのまなざしに、溺れたくなるのは、自身の弱さなのか――
……いつの間にか、眠っていたらしい。
自室の戸を叩く音に、はっと我に返った。
扉ををひらくと、そこに立つ人物に、シエンは驚いたふうに目をしばたく。
「……ケオル」
意外そうにその名を呼ぶと、彼はにっと笑みを浮かべて言った。
「そろそろ時間だろ。行こうぜ」
ケオルは議事録をとるため、議会には当然参加する。ただ、わざわざ呼びに来るのは珍しい。彼のことだ、何か話をしようと考えて来たに違いない。今日の議題についてだろうか、それとも、キレスのことだろうか……?
シエンは身構えたが、彼は話をするそぶりも見せず、こちらに背を向け歩き出していた。
中庭を眺め見るその表情は穏やかだったが、すこし疲れが見えた。そうして彼は、いつもよりゆっくりとした歩調で前を行きながら、顎下で切りそろえた黒髪から露になった首筋を、落ち着きなくさすっている。
「痛むのか?」
シエンが訊ねると、意識していなかったのだろうか、彼は驚いたようすで振り返り、
「は? 何が」
「いや、首。寝違えでもしたのか」
すると、彼はすこしぎこちないようすで視線を逸らし、「ああ、まあ、……大丈夫」と、曖昧な返事をした。
それからまた、黙って歩きだす。
「ケオルさん!」
と、ちょうど中庭を挟む柱廊に差し掛かったところで、後方から、カムアの声が呼びかけた。
しかし考え事でもしていたのか、聞こえていない様子で歩き続ける彼を、シエンが肩に手をかけ呼び止める。
「あの、これ……」
小走りで駆けつけたカムアは、指の形も分からぬほど包帯で硬く巻かれた手で、長方形の木箱を差し出した。
「ホルアクティ様が。先日の件、これで良い、と」
重要な書が収められているのか、それは黒檀に象牙の象嵌が施された、ずいぶんと立派な箱だった。
「ん、ああ」
受け取りながら、彼はまだぼんやりとしたようすで、箱を眺め見てばかりいる。
「他に、あわせて預かっていた書物も、お返ししようと思ったのですが、……すぐに会議室に向かわれるなら、僕が持って行きます。お部屋でいいですか?」
カムアが、肩にかけていたかばんを開き、中の巻物を見せてそう訊ねると、
「あ、いや」
やっと我に返ったのか、彼はすこし慌てたふうに返した。「自分で持っていく」
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき