睡蓮の書 四、知の章
四、知の章・序
月属の力を借る呪文。
あのとき――北で初めて唱えたそれが、思うような結果に結びつきそうにないと知り、焦りの中でケオルは思った。
これがもし、うまくいったとしても、「移動」は自分ひとりが限界なのではないかと。
自分だけが、ただひとり、ここを逃れる結果になるのではないかと。
(そんなことになったら――あの時と『同じ』だ)
十年前、ちょうど戦が始まったときのこと。
それは深夜だった。目を覚ましたケオルに、母親は、キレスをつれて避難するよう言った。
外へ向かう母を不安げに見送り、ケオルは一度、部屋の奥をふり返った。そこに眠っているだろう弟のことを思った。母に言われたように、起こしに行かなければならないと考えたはずだ、けれど、絡めとられたかのように、そこを動けなかった。
そのとき、迷いを断ち切るように、戸外で爆音が鳴り響いた。
瞬間、走り出していた。――部屋の奥に向かったのではない、戸を開け放ち、地下の避難通路へと、人々の流れをかきわけ突き抜けるようにして、走ったのだ。
自分ひとりで。キレスを、おいたまま。
(……)
そうした判断の所以を、ケオルはよくわかっていた。
それは、キレス自身も――たとえこの事実ひとつを彼が知らないとしても、それ以外の多くの事実から――知っているに違いなかった。
だから……、キレスが北で記憶を戻し、自分のところへやってきたとき、彼がしようとしたことは、意外でもなんでもなかった。当然とすら思えたほどだ。
幼少期、キレスはたびたびその力で、母に激しく抵抗した。
それは、ケオルがあの部屋を出てから、より激しさを増したようだった。
よりどころであるべき我が家が常に戦場のようだった。繰り返され、日ごとに激しくなるその力に、母が心身ともに傷ついていくのが分かった。
混沌としたその有様を、どうすることもできなかった。母を救うことも、キレスを止めることもできず、……募る苛立ちが、キレス自身への恨みとなっていった。
“お前さえ、いなければ――!”
それは間違いなく、ケオルが自ら発した言葉だ。
記憶が戻されたとき、はじめに思い出されたのも、この言葉だった。
今まで忘れていたことが不思議なほど、はっきりと。身体の底からぞっと湧き上がったそれを、しかし直後、ケオルは拒否するように、奥へと押し戻していた。
火が氷に転じるような、急激な感情の転換。反射的に反応したのち、恐る恐る奥を覗き込んで、改めてその正体を知り、愕然とする。
――罪悪感。それは、自分自身の変化のため起こったことに違いなかった。
幼い日々の記憶をすっかり隠して、ふたりはまるでやり直しのように、「もう一度初めて」出会った。友人として接した時間が、キレスの個としてのあり方と苦悩を知らせ、また、知属神となるために得た知識が、「月」の特異性を学ばせた。そして……、
そうした、彼の性質に関するさまざまな知識が、幼い頃の彼を再認識させ、また、自分自身を裁くのだ。
幼かったから、分からなかった、必死だった。それは嘘ではない、けれどそんな言い訳が立つようなことでもないと分かっている。
十年間。いつも見えないものに苦しめられ、もがくように生きる彼の姿を真近で見てきた。そうしたものから開放される時がくることを、これまでは友人として願っていた。
それが今は――より近くから、その望みを阻むものが自分自身であることが、見えてしまう。
彼が苦しめられてきたもの、多くの否定の中に、自分の言葉が、態度が、入るのだ。
十年もの月日、こんなことをすっかり忘れ、のうのうと友人のふりをしてきたなんて。
思い出さねばよかった――一瞬は、確かにそう思った。けれど……、
(これは、事実なんだ)
それを認識めた上で、そこから目を背けてはならないのだと。
事実がどのような形であっても、それを認めること。
大きな力を持たない知属が、その道を選択し、歩む上で、決して忘れてはいけない、ひとつの芯。
それは、彼が知神となるとき、自ら立てた誓いである。
そして、それを彼に説いてきたのは、兄フチアだった。
兄と、弟。
断つ事のできない、その繋がり。
それはケオルにとって、決して手の届かない、ふたつの軸。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき