睡蓮の書 四、知の章
ケオルははっと息をつめる。動揺の波が襲うのが傍からも知れた。うつむき、さまよう瞳。ゆっくりと、その肩が小さく揺れ、息は浅く吐き出される。
残酷なことであるとは分かっていた。けれど、知るべきであると――彼をひとつの成熟した個として認めるならば、それは礼儀であると。ヤナセはそう考えたのだった。
「そう、か」ケオルが言葉を漏らす。「あの、中庭のひどく焼け焦げた跡、あれ、そうだったんだ。……なるほどな」
言いながら感情の波を抑えているようだった。
「何か、理由があったんだと思う。兄貴は――あの人は、無意味なことを嫌うから」
「……」
ヤナセは思う。犠牲となったものが、もし、彼にとってずっと身近な存在であったら。それでも彼はこうして、兄の肩を持つだろうか、と。
「教えてくれて、よかった」ケオルは言った。「自分に近いことを知らないでいるなんて、どんなことでも、耐えられない」
「お前なら、受け止められるだろうと思った」
ヤナセが笑むと、ケオルは照れくさそうに肩をすくめてみせた。
「ここには俺の、もう一人の兄と……姉がいるみたいだ」
「マキアか。――ここの兄と姉は、口うるさいだろう」
「それだけ気にかけてもらって、ありがたいと思ってるよ」
「普通は気になるものだと思うぞ、長い付き合いだからな。……お前は無関心に慣れすぎているのじゃないか」
ヤナセが言うと、ケオルはわずかにうつむき、そうしてぱちぱちと瞬いた。
「……いいんだよ、あれで。兄貴は、あのままのほうがいいんだ」
本当にそれがいいのか、諦めてしまっているのか――ゆっくりと息を吐いたケオルの様子からは、どちらとも判別つかなかった。
やがて天井のない柱が林立する、この神殿の玄関ともいえる場所にたどりつく。
「お前の部屋、そのままにしてあるぞ。泊まって、ゆっくりしていけばいいものを」
「ありがとう、でも」と、ケオルは言った。「キレスもいるし」
ヤナセははっとした。その言葉があまりに意外に感じたためだ。こんなにも近い二人だったろうか?
そのとき彼のうちに、じわりと何かが――あまり歓迎できないものが――湧き出たように感じた。
「キレスは」歩き出したケオルを、ヤナセは思わず呼び止めていた。「変わりは、ないのか」
記憶を、その力を戻した月。千年前、生命神ハピの心をとらえ、破滅へと導いたという、その性質。直接的な力でなく、無意識下に根を張り巡らすようなその影響力。
キレスはその根を、どこまで張り巡らせているのか――。
「……どうかなあ」
振り向いたケオルは、少し首をかしげると、答えあぐねるように言った。「前より話すようにはなったけど」
「どんな話をするんだ?」
「話というか、……どうでもいいことばかりで、説明に困るな。最近作った飾りがどうとか、いま何か気づいたとか、こっちのすることにわざわざ文句つけたり、とにかくちっとも脈絡がない」
思い出すだに、とケオルはため息をつく。
「まあ、あいつの話すことに意味を求めるほうが、難しいけど」
相変わらず、とケオルは笑う。それから柱の向こうの月を見上げて言った。「そろそろあいつ、起きるよ」
ヤナセはその背を見送りながら、ひっそりと息をつく。
昨夜この東に現れたキレスは、ヤナセを前にしても特に悪びれる様子なく、それどころかいつものように目をそらすことさえなかった。まるで無防備に視線を受け止めるのは、自身の力の優位性を確信していたせいだろうか。
妻の目に触れぬよう気を張りながら、ヤナセは彼に、中央で妻に何をしたのかと問うた。
キレスはいくぶん不服そうに顔を曇らせてから、べつに、と答えた。べつに何もしていない、と。
何も? ……そんなはずがない。このとき幼い息子が突然泣き出さなければ、思わず声を荒げ責め立てていたかもしれない。
彼の言うことが本当であったとして、もし、無自覚にその影響を敷いているのだとしたら――あの、千年前の月の姫のように――、それは目に見えず、影響されていると気づきにくいからこそ、内側から食い尽くされるような恐ろしさを覚える。
このような力に、いったいどうやって抵抗できるというのか。
「……」
ヤナセは思考を振り払うように空を仰いだ。暮れかけた空高くに浮かぶ、上弦の月。
最後の戦は、新月に起こされるという。そのときまで、もうひと月もない。
いつもどおりの日暮れ。変わらず流れる平穏な時。
だが、今のヤナセには、それがひどく奇妙なことに感じられた。この現状には、あまりに不釣合いであると。
これは、不穏な何かを隠す、偽りの平穏――そう思えてならなかった。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき