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たった一度の過ち

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『たった一度の過ち』

友人に誘われ東南アジアを旅した。ベトナムから始まり、タイ、そして旅の最後はフィリピンである。
フィリピンは首都マニラを巡る一泊二日の観光で、最初の夜は友人と別々の行動をとった。夜も深まった頃、繁華街の一角にあるバーで飲んだ。
そろそろ出ようかと思っていたとき、美しい女性が現れた。彼女は片言の日本語と英語を織り混ぜ話しかけてきた。
「隣に座っていいかしら?」と聞く。
「どうぞ?」と答えると、人懐っこく微笑む。はちきれんばかりの豊かな胸と美しい肢体が実に魅力的に映った。
「マリと言うの。一緒に飲んでもいいかしら?」と言うので、
「僕はケンシロウと言います。何が飲みたいですか?」と尋ねると、
「ビールがいい?」と答えると、ボーイを呼び、ビールを注文する。
ほろ酔い気分になったマリは悲しい身の上話をした。もう十八年前、マリの母は日本に出稼ぎにきた。そこで恋に落ち、マリを孕んだ。「いつか迎えにいく」という男の言葉信じてマリの母は帰国し、マリを産んだ。一年、二年と過ぎても、いっこうに来ない。そのうちに母を病に倒れた。マリは病に伏した母を助けながら必死に生きてきた。マリは父親に会いたくて、日本人を見かけると、つい声をかけ、「父のことを知っているか?」と聞くのが習慣になったという。自分に声をかけたのも、そのせいだという。彼女の話の幾分かは嘘に違いないと思っていたが、同時に全てが嘘だとも思わなかった。
 突然、マリは「今夜、私と楽しいことをしない?」と言った。
どういう意味か分からなかったので、意味を聞いた。
すると、マリは恥ずかしそうに言う。
「一時、夢のような時間を過ごす代わりに、多少の金を恵んで欲しいの。でも、勘違いしないで、誰とでもするわけじゃないの。特別に好きになったあなただけ。今、小さなスーパーで働いているけど、今月、ママの治療代が払えないの」
じっと見つめると、マリは今にも泣きそうな顔をした。
売春めいたことを好まなかったので、断ろうと思った。その前にマリが再び聞いた。
「いやなの?」
断った。いや、断ったつもりだった。そしてバーを出た。
「あなたともう少し、一緒に居たい」と言ってマリもついてきた。気付くと、二人でホテルに入っていた。
部屋に入ると、「私を助けて」とマリは懇願した。
とても気の毒だと思い、金だけ渡して帰そうとしたら、サービスなしで金は受け取れないといって服を脱ぎ始めた。酔っていなければ、おそらく一度くらいなら良いだろうなんて思わなかっただろう。だが女神のような、美しい裸体を目の前にしたとき、一度だけなら、許されると思った。その瞬間、理性の箍が外れた。狂ったように美しい肉体を貪った。……気づいたときは朝だった。マリの姿はどこにもなかった。まるで夢のような一夜だった。

帰国して半年後、現代のペストともいうべきエイズにかかっていることが分かった。日に日に衰弱した。妻に打ち明ける。
「たった一度だけの裏切り……男なら誰でもがやっている」と苦しい弁明をする。
 優しい妻はその柔和な仮面を剥ぎ取り、鬼のような形相で睨につけてくる。背筋が凍った。夜叉だと思った。何も言わずにただ見つめるだけ。
 次の日、妻は子供を連れて実家に帰った。

妻と一緒にやっていた小さな個人医院を閉鎖する。
一人残された部屋に秋の夕日が射す。目を閉じる。すると、自分の夢、希望が走馬燈のように脳裏を過る。こんな終わりを一度も予期したことはなかった。
 ずっと、善良な医師だったのに。
「貧しき者を助けねばならない」と使命感のもとに他の医師が面倒をみないような人を進んで診察してきた。二十年! 何という長い月日だろう。決して豊かではないが、平和で充実した日々だった。それがたった一度の過ちで崩れたのである。



作品名:たった一度の過ち 作家名:楡井英夫