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井上 正治
井上 正治
novelistID. 45192
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仮想の壁中

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第2章 196X.02.25
  第1
 今年成年に達する大学生の室山藍子は、今日も4限目までの講義を受講し、部活の部屋に立ち寄ったのち、大学生協で夕食を済ませて午後7時に間借りしている部屋に帰り着いたところです。親元を離れ、毎日の生活の中での様々な選択肢についてすべて自分で判断する生活も、初めは楽しみと感じるだけでしたが活動範囲の広がりとともに最近では責任と感じるようになってきました。それと共に、高等学校と違って、その広さと深さにおいて際限がない大学の学問に圧倒された1年弱でしたが、やっと自分の立ち位置も定まり生活環境や人間関係の構築に取り掛かる意欲が自覚できるようになってきました。
 これは、未来に明るい希望を持ったひとりの大学生が、それまでの20年間の空想を温めた夢物語といえましょう。
  第2
言い古された言葉ではありますが、「受験戦争」という言葉を今一度思い出していただきたいと思います。受験戦争の最前線である受験会場での気持ちはどのようなものだったのでしょうか。おそらく周りの人たちがみな敵に見えたのではないでしょうか。しかし、同じ受験生同士の対立という皮相的な見方をやめて、このような状況を強いられる社会の中の自分というものについて考えていただきたいと思います。
 今の高等学校は、大学受験のための予備校となっているのではないでしょうか。高校教育は大学入学試験のために機能しているといっても過言ではないのではないでしょうか。日常的に行われる補習授業や、○✕式の多量の試験だけでなく教育内容もまたそのようになっているのではないでしょうか。つまり、断片的な知識の詰込みという形をとっているのではないでしょうか。大学入学試験に必要と思われる語句があらかじめ太字で印刷された教科書を購入し、生徒たちはそれをなるべく多く暗記するという形で授業が行われているのではないでしょうか。その結果は、たびたびおこなわれる試験で試され、余裕のない生活の中ではよほどの変わり者でない限り、その背景を勉強することや、内容について深く考えること、また、応用して新分野に踏み込むというようなことはできないのではないでしょうか。大学入学試験に関係のない科目については、意欲のないまま授業を受けなければならず、教師も一部の生徒だけを対象にした無味乾燥した授業を行わなければならないのではないでしょうか。そのような環境の中で、生徒たちは朝早く登校して補習授業から正課授業を済ませ、一日の義務を無事に終えたといわぬばかりの安ど感を漂わせた顔をして帰宅を急ぎ、同窓生の目を盗むようにして刻苦勉励しているのではないでしょうか。一方で、教師は補習授業、試験の採点、様々な学習資料の作成や部活動の指導に追われて生徒の習熟度や性格など教育的理解を深めるための時間を確保する暇はないのではないでしょうか。また、生徒たちも前に述べたような日常生活の中で、現在身につけなければならない大切なものがわからないまま、教師から大学入学試験に必要な知識しか学ぶことができないのではないでしょうか。そのような関係の中では、その人にとって本当に必要なものを学ぶための触れ合いがほとんどなく、指導と服従のみの関係になってしまうのではないでしょうか。現在の学校教育の大量生産方式は、そのような傾向を一層激しくするのではないでしょうか。子供の教育に過度に熱心な親が多くみられる最近の家庭も、生徒にとっては安息の場所ではなくなっているのではないでしょうか。このような環境の中で生徒たちは、本当に孤独になってしまうのではないでしょうか。
 与えられたものを暗記することや、内容に問題がある勉強のみに時間を取られることで、社会の動きや人間性の成長から取り残されることになってくるのではないでしょうか。暇も友人もない生活は生徒たちの性格形成に偏りを生み、そのことから生じる不安は受験戦争の中の競争へと解消されていくのではないでしょうか。
 このようにして蓄積された知識は高等学校の3年生になって、大学入学試験という排悶の場を与えられるのではないでしょうか。国立大学では5科目、私立大学ではそれ以下の科目数で大学入学の可否が判断されると思うのですが、いかにも当世向きの大味なやり方ではないでしょうか。この法治大学の場合は受験生のうち3割が入学を許可され、他の人たちは不合格ということになると思うのですが、仕方なくこの大学に入った人や、学問への意欲に燃えて入った人に対して等しく一定以上の点数を取ったということで、大学生の肩書が与えられ、「この激烈な受験戦争を勝ち抜いてこられた・・」という賛辞が呈せられるのではないでしょうか。しかし、点数は彼らが大学にふさわしい人物であるということを示すものではないのではないでしょうか。はっきりと大学での目的を持ち、地道な努力をしても点数が足りなければ落ちるでしょうし、その年の大学入学試験の問題傾向でも落ちることがあるのではないでしょうか。当然に、その反対のこともあるのではないでしょうか。
 このような社会制度の背景には、高等学校における教育が形骸化しているのと同様の価値観が感じられ、それは画一的な人間を作るということではないでしょうか。合格した人たちは、当然落第した人たちのことを気にかけるべきではないでしょうか。ほとんどの合格者はそのことに対してたぶん無頓着でしょうし、また、心に痛みを覚える少数の人たちも、「私たちは彼らよりも努力したし、苦しい経験をしたのだから合格する権利がある」と自分の現在の立場を合理化してしまうのではないでしょうか。先の賛辞やこの合理化の中に共にうかがえるのは、主体性というもののなさではないでしょうか。意識してか、あるいは無意識のうちにか、現実の矛盾を生み出している論理の中に自分の立場を置いているのではないでしょうか。それは、野放し状態に置かれている受験戦争の背景を考え、その論理に対する自分自身の価値体系を新たに構築してそこに自分の立場を見出すのではなく、現実の重みに耐えかねた姿といえるのではないでしょうか。与えられるべきものは賛辞ではなく、予備校のようになってしまった高等学校の教育や受験戦争を生み出す社会の論理に埋もれている主体性のない彼らへの哀れみであり、行わなければならないのは自己を合理化することではなくて否定すべき現実の重みに耐え抜くことではないでしょうか。現在の制度に無批判に従うことや、その中で自分の立場を合理化しようとする努力は、結局自己を偽る道ではないでしょうか。それは、現代社会を支配している価値体系に逃避することであり、現在の体制の論理を拡大再生産する手段にしかなりえないのではないでしょうか。問題は、私たちが人間らしさを回復しようと努力をしても、現在の社会体制の論理の中にしかその聖域を見出すことができないという根の深さにあるのではないでしょうか。そして、この根の深さを感じさせるものとして、法治大学に戦闘機が墜落した事故以来の様々な対立があるのではないでしょうか。
  第3
作品名:仮想の壁中 作家名:井上 正治