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謝恩会(前編)〜すれ違う手と手〜

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 まだ肌寒い3月の夜更け、文化住宅「桜花荘」の狭い部屋で倉泉悠里(くらいずみ ゆうり)はアンプに繋いでいないギターをかき鳴らしていた。両隣は家が並んで大きな音も出せず、楽器を鳴らす時はいつもこんな調子だった。
 先日高校を卒業したばかりの17歳は進路も決まりこれからの準備で色々と忙しい毎日を過ごしているが、これまでの長く暗いトンネルからは抜け出していることが実感できているから、これからやって来る明るい未来に希望を抱き、忙しいことも喜んで受け入れられる。未だ用事は残っているが、ほんのひとときを楽器と共に楽しんでいた。

 調子が乗ってきたところで居間のテーブルに置き忘れていた普段あまり鳴ることのない携帯電話が鳴った。
「悠里、電話鳴っとうで」
「誰やろ?」
 悠里は食卓でお茶をすする母に呼ばれて居間に出てきて、それを拾い上げた。着信を見れば090で始まる数字の羅列、そもそも携帯のアドレス帳に登録してる人と自分の番号を知っている人は両手で足りる。携帯そのものを置き忘れる事が多い悠里はそもそもこれを生活必需品とは思っていなかった。授業に家事に剣道にバンド――、日々の作業で忙しく動き回っているので、携帯電話を持つことが億劫なのも普段置き忘れる理由の一つで、学校も卒業し、授業がなくなったのでその分携帯電話に気をかける機会が増えたくらいだ。
「もしもし倉泉です。どちら?ああ、坂井くん」
 母と目が合い、一言「高校のクラスメート」とだけ行って悠里は受話器に耳を当てたまま部屋に入った。 

「あたし?うん、春からの準備もあるけど基本携帯好きちゃうからあまり持たへんねん」
 
「うん。明日は道場行って、それからかQUASARに行くよ。次の日は晴乃の合格発表見に……、なんだかんだで忙しいなあ」

「え?なに?謝恩会には出てくれるって、やったぁ!」

「段取りはサラが企んでるからまた連絡してあげて。あたしは携帯持ち歩かへんからサラの方が確実やから」悠里はそう言いながら眼鏡の縁をかき出した「はーい、じゃあね」

 悠里は電話を切って画面を見つめた。着信履歴を見れば数日前にもあったが誰の番号かわからずに折り返さなかった事を思い出した。そして机に立て掛けただけのギターをスタンドに直した。

 電話の相手は同級生の坂井湊人(さかい みなと)、高校生ながらライブハウスでピアノを弾くプレーヤーで、最近悠里の気になる人物だ。好きとか、嫌いとか――ではなく、一人学校の音楽室でピアノを弾く姿を見て、小さい頃に見た自分の兄の姿を見た。
 感情をピアノに憑依させ、別人のように指を動かす――。兄同様、スタイルこそ違うがミュージシャンとしてのオーラのようなものが見えるのが気になる理由だ。

 高校生活最後を締め括る謝恩会で悠里のバンドはステージに立って演奏をする計画を水面下で進めている。成功を大成功にするには彼の協力がどうしても欲しかった。
「うーん、どうしようかなぁ……、エイっ」
と言いつつ悠里は携帯電話を操作して「坂井くん」と名前を付けて番号を登録した。

「悠里、速くお風呂入っちゃいなさい。明日も稽古行くんでしょ?」
 ふすま越しに母の声を聞いて時計を見た。電話のあと結構な時間ボーッとしてたようだ。
 明日は卒業したばかりの高校で合同稽古の予定だ。悠里はお気に入りの竹刀を取り出して、父から貰ったお気に入りの革鍔を付けた――。