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竜が見た夢――澪姫燈恋――

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 水の竜がその「存在」に気づいたのは、前の巫を失ってから十年が過ぎたころのことだった。
「此度(こたび)は存外にはやい……」
 言いさして柳眉をひそめる。
 ついで守るべき主がいないにも関わらず役目から離れようとしない守を呼んだ。
 命はある女を連れてくること。
「その者は次の我が巫女を宿しておる。その巫女、我が手元にて生まれねば厄介なこととなろうて」
 守は反論も疑問も返さずに肯い、すぐに宮を出た。宮にて働くその者たちも慌しく動き出す、その中で。
 竜だけは冷徹な眼差しで佇んでいた。
「――果たして、吉凶どちらに転ぼうかのう」

 次代の巫女は竜がおわす宮にて生まれた。
 世を平らかにする者の誕生に人々が安堵したのも束の間。彼女達の表情は恐怖に凍りつく。
 赤子の泣き声と応じて水が暴れだしたから。
 初産の苦しみを乗り越えた母も、産婆として様々な子を取り上げてきた老婆も、そして仕える主を待ち望んでいた女達までもが暴力的な水に恐怖した。
 ――これはいったいどういうこと、と。
 全てを予測していた竜だけがやはり動じず。力の制御を知らぬ赤子に代わって水を抑え、母親に命じる。
 子を抱いてやれ、と。世界に生み出されてしまった哀れで幸いなる子に始まりの言祝(ことほ)ぎを与えてやれ、と。
 経験の差か。始めに我に返った産婆も竜の意見に同意し、産湯に浸からせた赤子を母親に差し出した――けれど。
 女が抱いたのは己の子ではなく。己が腹に宿っていた、畏怖すべき神の従者で。
 水の竜は静かに目を閉じた。

 竜により瑠璃と名づけられた赤子は竜のもとで長じる。
 竜の巫女として育てられた子は、己の感情の揺れに操ることを許された力が揺れることを学んだ。
 そして人々が己に向ける感情の名――畏敬と恐怖――を知り、人々を怯えさせないために己は泣いてはならないのだと知った。
 幸いと、言うべきか知らないが。幼子に笑いかける者は存在せず、瑠璃は笑顔というものを知らず育った。
 彼女を守るはずであった守でさえも、瑠璃の力の余波に傷ついてから彼女を忌避した。守るべき存在に傷つけられる不運を呪って。
 唯一、瑠璃の誰よりも傍にあり続ける竜は、人ならざる者の愛で少女を慈しむ。その情は人のものとどこか異なり、故に瑠璃は竜から情を学ぶことが出来なかった。
 そうして瑠璃は知った。人々に畏怖される己は「人」ではないと。
 竜ではもちろんなく、けれど人でもない。「竜に仕える者」でしかないのだと。

 何をもって人は「人」たりえるのか、知る者は少ない。
 あるいは、それは人によって異なるのかもしれない。

 言葉を失っている戒の様子を訝り、瑠璃は緩く首をかしげた。
 こうして話していると、彼に対して恐怖はない。けれど消えたわけでもなく。
 瑠璃は、己が何故戒に怯えるのか分からずに惑う。
 彼の何に怯えているというのか。かつて自分の傍にいた守や、自分の世話をしてくれる女性達が自分に怯えるのは分かる。制御できなかった瑠璃の力に傷つけられたのだから。
 瑠璃は彼女たちにとって異質なのだから。
 けれど、戒は。
 始まりのときこそ乱暴にされたけれど、それは「瑠璃だから」ではない。彼の事情による。彼はどこにでもいる「人」であり、異質な存在ではない。
 なのに、何故。
 思考に浸りかけた少女の目に、濡れた男の着物が映る。自分は体調を崩さないけれど、彼は。
 瑠璃はそっと手を伸ばし、戒の身体から水気を取った。
「っ……」
 驚く男を見上げ。
「あとで温かいものを用意していただきましょう」
 短い時間でも、身体は冷えたかもしれない。まして彼はまだ動けるようになったばかりなのだから。
「それでは失礼いたします」
 深くお辞儀をし、瑠璃は戒に背を向けた。
 振り返ることなく離れていく小さな背中を、戒は声もなく見つめる。
 綺麗な模様の浮かぶ板張りの廊下は濡れておらず、少女が浴びた水はその身体に留まったままであることがうかがえる。
「……」

『留まらぬ者はあの子に何もしてやれぬ』

 近い過去に聞いた言葉が、重たく戒の中で蘇る。

『人ではありません』

 瑠璃の言葉を聴いたためだろうか。『留まらぬ者』という言葉が、違う意味をもっているかのように響いてならなかった……。

「いかがいたしました?」
 立ち尽くす戒の背後から声がぶつかる。
 振り返ると、三十半ばを過ぎたくらいの女と視線がぶつかった。何度か見た顔だ。確か……そう、ここに仕える者たちの司だったか。
「……巫女殿が、先ほどまで雨にうたれておられた」
「ええ。雨が降ると巫女様はいつもそのようになさいます」
 何でも、雨もまた水がめぐった姿であるとか。竜の従者ではない私どもには分かりかねることですか……と、淡白に答える女の態度が信じられない。
「それだけ……なのですか?」
「――何が、にございますか」
「あんなにも幼い方が雨にうたれているのですよ!? もっとほかにっ」
「あの方は『水の竜の巫女様』です」
 感情の宿らぬ言葉に絶句した。
 瑠璃は水の竜の巫女、それは絶対的な事実。しかしだからなんだと言うのか。
「あの方は我らのような只人とは異なるのです。神に近き、この世に4人しかおられぬ方。あの方のなさることに、私どもが口出しするなど……なんとおこがましい」
 侮蔑するような視線に愕然とした。それは別に、戒が傷ついたからではなく。
 瑠璃の扱いがあんまりだと感じたから。
 ……確かに。戒は竜やそれに仕える者のことをどこか御伽噺の住人のように感じていた。
 火、水、風、大地があることに感謝をし、話に聞く彼らに敬意を抱いてもいた。しかし現実味は薄く。
 だが、彼は瑠璃に出会った。
 出会いのありようは褒められたものではないけれど、それでも出会った。そして知った。
 水の竜の巫女が、あまりにも幼く、壊れやすい破璃のごとき瞳を持っていることを。
 戒でさえ短い時間でそれを知ったというのに、他のものは何も思わないのか。気づこうとさえしないのか。「竜の巫女」という目隠しに。
 戒の動揺も知らずに女は続ける。
「替えのお召し物は障りなく用意しております。……それから、あの方は私の祖母のころからすでに竜の巫女としての任に就かれております。侮るなど、無礼も大概になさいませ」
「――っ!?」
 明かされた事実に驚きはした。
 だが……。
「……私も、部屋に戻らせていただきます。失礼をいたしました……」
 踵を返しながら思う。瑠璃の幼い瞳を。
 巫女としての永き時は、彼女に何ももたらしていない。
 だから、瑠璃はあんなにも儚いのだ……。