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竜が見た夢――澪姫燈恋――

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第四章   時が経ったなら




 重たいほどの沈黙を、破らなくてはならないのは瑠璃だった。少女はうつむいて必死に探した言葉を紡ぐ。
「……貴方はこれからどう、」
「私の意思はお伝えいたしました」
 穏やかに、しかし逃げを許さない言葉。華奢な身体がびくりと震えた。
 静観の構えに入っている竜は、心の読めぬ表情でただ全てを見ている。
 先ほどよりは短い沈黙のあと、瑠璃は緩やかに顔を上げた――それを後悔するとは知らずに。
「それが方便であることを貴方は知っているはずです」
「ならば方便を真に」
 なぜ、と問いかけて。瑠璃は言葉を失った。
 戒の瞳を見てしまったから。
「っ……」

(のまれる)

 戒と出会った時に初めて生まれた感情が、今までで一番の強さをもって少女を襲う。
 なぜ彼を恐れるのか。唐突に悟る。
 決して荒げられることはないけれど、それは薄情とは結ばれない。それほどに強く、深く、激しい感情。
 それを宿した瞳を見つめると、瑠璃は己の小ささを思い知る。
 そして戒が持つ情の強さにのまれて我を失ってしまうような、そんな恐怖を覚えるのだ。
 人の情を知らずに育ってきたからかもしれない。
 あるいは戒が情の強(こわ)い人間だからかもしれない。
 そんな少女の恐怖を知ってか知らずか。彼は静かに歩みを進め、瑠璃の前の地面に膝をつく。
 訪問者たちと話をするためにあえて廊下に座っている瑠璃と、己を下げて土で身を汚すこともいとわない戒。
 それは確かに主従のありようで。けれど。

「私はあなたをお守りしたいのです」

「っ――」
 小さく横に揺れる首。動かぬ表情の中、蒼い目の奥だけが雄弁に恐怖を語る。
 その恐怖であってもいいから、表情にのせることができればいいのにと思う。
「あなたのためにこの身をもって戦いましょう。あなたのお傍を可能な限り離れないと約します」
 不老ではあっても不死ではない巫女と守。巫女を守って守が死ぬこともあるというから、絶対を誓ったりはしない。
 それでも想いは真だと伝えるために。
 戒は厚かましさを承知で行動する。
 世界を支える小さな手をとる。驚きと恐怖で反射的に逃げを打つ手を、やんわりとだが力を込めて放さない。
「か――」
 困惑も、恐怖も。
 全てを無視する甘美な罪悪を背負って。その柔らかな掌にくちづけを落とす。
「っ!?」
「あなたを守ることをお許しください」
 掌にとはいえくちづけられて。けれど瑠璃は恥じるのではなく、ただ怯えを強めた。
 それを敏感に察知した戒は、さりげなく力を弱める。
 直後、弾かれたように瑠璃は立ち上がって逃げる。青年の視線を背に受けながら。
 小さな背中が見えなくなってから十を数え、戒もまた立ち上がった。そして己の主にと望む人を追うべく一歩を踏み出す。

『そなたは我が巫女をどうするつもりか』

 その足を止める、静かな言葉。
 強い怒気を孕むわけでもないのに、それはたやすく人の足を止めた。それは神と呼ばれる存在であるがためか。
 戒は臆することなく水の竜を振り返った。竜の表情は相変わらず読めない。
『我が巫女は決して不幸ではない。幸せでもないが』
「……」
『何故かはわかるであろう? 知らないからだ』
 人の優しさを知らず、喜びを知らず。ただ畏怖されて縋られて。「神の従者」であることが少女の存在意義。
 誰も瑠璃に、瑠璃としての心を求めなかった。
『持つ者にしてみればそれは哀れかもしれぬ。だがあの子は持っておらぬ、知らぬ。だから哀れでもなんでもないのだ』
 ただ、それが、他の人と「違う」だけ。
『だがそなたは我が巫女の傍にありたいと願う。我が巫女を想うと言う。それは変化をもたらすだろう』
 優しく、温かく、苦しく、切なく、激しい。
 そんな人の情というものを、瑠璃は知ることになるだろう。
 そして少女は孤独ではなくなるのだ。誰かが傍にいてくれることの幸せを知るのだろう。
 だが。
『それは今までが孤独であったと、不幸であったと教えることだ。――分からぬとは言うな。幸いを教えるということは不幸を教えることだ。喜びを教えることは悲しみを教えることだ』
 そなたにその覚悟はあるのか、と神が問う。
 戒は一瞬だけ遠くを見た。
「御身はかつておっしゃった。留まらぬ者はあの方に何もできぬと」
『然り』
「あの方の傍にと願ったとき、留まらぬことが妨げとなるならば喜んで留まりましょう」
『……』

「竜の巫女を『異形』と呼ぶなら私も喜んで『守』という異端になります」

 その目に宿る深い感情。水の竜の巫女が恐れる、強い感情。
 それが、戒を動かす。
「あの方のお傍にあることを望むのは私の我侭にございます。それが瑠璃殿に知らなかった不幸を教え、罪に問われるというなら、喜んでその罪を背負います」
『……ほう?』
「そして――もしも瑠璃殿が」
 独りしか知らない少女が、喜びを知らない瑠璃が。
 戒の存在を受け入れてくれたら。
「私をきっかけに幸せを知ってくださったなら……」

 それに勝る幸いはないと、思うのでしょう。

 今度こそ巫女を追っていった男を見送り、竜は一つ息を吐く。
『まこと……』
 人とは愚かで、浅はかで。けれど輝かしく、目が放せない。


 逃げた瑠璃を、戒は宮の敷地内にある池のほとりで見つける。
「瑠璃殿……」
 ぴくりと、少女が震えた。
 名を呼び、足を踏み出す。
「――っ、来ないで、ください」
 震える声が男の歩みを止める。
 瑠璃は振り返り、揺れる眼差しで戒を見た。しかしすぐに逸らす。
 そしてそろりと後ずさる。その後ろには池。
「瑠璃殿!」
 戒の危惧とは裏腹に、瑠璃は池の中へ落ちることはなかった。その小さな身体は滑るように水面の上を渡る。波紋さえ、起きない。
「……これが、わたしの力です。わたしは只人ではない。『竜の巫女』という異端なのです!それでも貴方は」

「お守りします」

 凛とした迷いのない声。弾かれたように瑠璃は顔を上げる。そうして男の瞳を直視し、怯える。
 直後、水がかつてのときのように戒を襲う。
「!!」
「――っ!」
 息を呑む少女。戒は辛くも避けた。
 無傷な姿に安堵の息を漏らし、それから瑠璃は水面に膝をついた。

「……もう、おわかりでしょう……。わたしは、わたしの力を抑えられない。またいつ、貴方を襲うか、傷つけてしまうかわからないのです」

「それでも構いません」
「……どうして」
 迷子のような声音。
 瑠璃がどれほどの時を生きているのか、戒は知らない。しかし彼女が生きてきた年月など関係ない。何故なら少女は満足に人に触れておらず、それゆえに心が育っていないのだから。
「私は、多少なりとも腕が立つと自負しております。ですから今のようにあなたの力を避けることもできますし、そうたやすく死ぬこともないと思います」
「……」
「どれほどに傷つけられてもあなたのお傍を離れたりしません」
 だから感情の制御が効かず、むりやり抑え付けられたそれが暴走へと繋がる。
 ならば戒が感情の全てを受け止めればいい。受け止めて、一つ一つの気持ちの意味を知っていけばいい。時間はあるのだから。
「愛しています、瑠璃殿。だから、どんなあなたでも受け止めたい」