「歴史のお話を」 飛鳥時代
それは明治維新でも同じでした。
ここでは触れませんが、大久保も西郷も言ってみれば「謀反人」です。
市民革命ではなくクーデターによる政権剥奪でした。
その延長線上にある横柄な官僚意識が大戦へと進ませたのですね。
軍部の暴走と言いますが、命令は大本営の官僚が出していたと思われます。
自らを正当化することをひたすらに主張して、正義を隠してしまったのです。
そこには市民や女子供の幸せなど本気で考える思想が生まれるはずもなかったでしょう。
皮肉なことに維新のヒーローたちもなぜか暗殺されてゆきます。
坂本龍馬、西郷隆盛(西南の役で自刃)、大久保利通。
話を戻します。
壬申の乱の勝者だった天武天皇(大海人皇子=おおあまのみこ)は、その後の治世で日本書紀編纂を指示したから、自らの皇位継承の正当性を書き留めたのでしょうね。
歴史研究家の意見は幾つかに分かれますが、一つの話として以下にボクが共感を覚えるストーリーを展開します。
天智天皇(てんじてんのう)(=中大兄皇子なかのおおえのみこ)が病床に伏しているとき、弟で実質の後継者とみられていた大海人を呼び寄せて、自分の死後は息子の大友皇子(おおとものみこ)を天皇にしてお前はトップの地位で支えてやってほしい、との韻を含めた遺言をしました。
これに対して大海人は、「こふ、ひつぎをあげて、おほきさきにさづけまつらむ」と返事しました。意味は「大后(おおきさき=皇后のこと)であった倭姫王(やまとのひめみこ)に譲位しましょう」と言う内容でした。
天智が大友に譲位したい気持ちを解っていて、大海人は自分だと争いになるからひとまずクッションとして皇后さまを天皇に据えて後のことは考えましょう、という気持ちだったのです。
この後天智天皇が崩御して、人心は二つに分かれます。亡き天皇派が推す大友皇子と実質最高位に就いてきた大海人にです。
今この時政権争いをしても勝ち目が少ないと悟った大海人は引退して吉野へ正妻であった、うののさらら(後の持統天皇=じとうてんのう)とごく少数の皇族と采女(うねめ=身の回りの世話をする身分の高い女性)、舎人(とねり=武器を持った番人)達を引き連れて大津(近江大津宮=おうみおおつのみや)を去ります。
次回に続く------
作品名:「歴史のお話を」 飛鳥時代 作家名:てっしゅう