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ひどい雨の日には、誰かと

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『ひどい雨の日には、誰かと』
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ユミは目覚めた。
十分寝たという満足感はなかった。
ベッドのそばのカーテンを少し開けて外を見る。まだ暗い。外灯に照らされたところを見ると、雨が降っているのか分かった。それもかなり強く降っている。梅雨時には、珍しい光景ではないが、ユキは何かに引き付けられるようにじっと眺めた。
まだ五時前である。時折、人や車が通り過ぎる。
雨は激しく降ったり、小やみになったりを繰り返す。よく耳を澄ますと、雨が何かに当っている。まるでドラムを叩くような音がする。そのリズミカルな雨音がユミの心を妙に捉えて離さない。雨音を聞いているうちに過ぎた日のことを思い出していた。

――始まりは会社で同僚との小さな諍いだった。諍いを繰り返すうちに精神的に不安定になり、家庭に持ち込んだ。つまらぬことで夫に突っかかったり、罵倒したりした。だんだんとエスカレーションして、しまいに物を投げたりした。本当は夫にもっとかまってほしくて、演じているだけだった。演じているつもりが、つい本気になっていた。だが、そのせいで夫の心が離れ、浮気をした。浮気を強く詰ったら、逆に夫から離婚を言い出された。
強く迫る夫に、「なぜ?」と聞いたら、
「お前の精神は壊れている。まるで狂犬みたいだ。疲れた。愛はとっくに消えた。浮気も悪いと思っていない」と淡々と答えた。
「違う。あれは演じているだけ」と取り繕ったが、
「そうかもしれない。でも、お前には、疲れた。お前はプライドが高くて、甘えるのが下手な女だ。独りで生きていくのが合っている」
「勝手に決めないでよ」と泣いた。わめいても、夫はまるで石のように動じない。確かに夫には愛の微塵もないことを悟り、しぶしぶ離婚届に判を押した。
慰謝料として貯金の五百万は彼女がもらい、マンションを出て安いアパートに引っ越した。相変わらず同僚とうまくいかないので、思い切って会社を辞めた。その時、東京に出てきて、築いた二十年のことが跡形もなく崩れて消えた。
離婚後、派遣の仕事を見つけた。どうにか暮しているが、月収は前の半分、会社とアパートを往復するだけの日々となっていた。なぜ浮気を許せなかったのか。なぜ別れてしまったのか。なぜ縋らなかったのか。いろいろ考えても、過去を戻せない。ただ、別れ際に夫が言った。
「お前はプライドが高く甘える下手だ」という言葉が今も胸に突き刺さっている。それは永遠に抜き去ることはできないほど深い――


 夫と別れたことも、会社を辞めたことも、もう過ぎたこと。自分にそう言い聞かせて起きたが、ふいに過去を思い出してしまう。前にも同じようなことがあった。同じように雨の日だった。雨の日はどうも過ぎた日のことを思い出す。雨音が悲しく聞こえるせいだろうか。

明るくなってきた。もう少しで五時になる。いつもより一時間ほど早いが、起きることに決めた。
雨音が気になって、ベランダを出てみた。バケツが置いてあった。バケツはずっと前から置きっぱなしだった。雨がバケツを叩いて、ドラムを叩くような音がしたのである。それが妙におかしくて独り笑った。
軽く朝食を済ませ、すぐに安い化粧品で化粧した。二十分で化粧を終えると、着ていく服を選ぶ。服は半年近く買っていないけれど、それでも季節やその日の天候を考え選ぶ。
支度が済むと、出る前にもう一度、鏡の中に映る自分をチェックする。誰かが言った言葉を思い出した。「微笑みなさい。そして鏡を見て微笑んでいる自分を確認しなさい」という言葉を。すると、「なぜ、夫に対して微笑まなかったのか」という悔悟の念が起こった。微笑まない自分に愛想を尽かせても当たり前だと思ったが、もしも時間を巻き戻せるなら、もう一度やり直したい。だが、もう一度やり直すには、中途半端な歳だった。美しくもない中年太りした四十歳。若いもなく、老いているわけでもない。年老いていたなら、これも運命と諦められるだろうか、そこまでいっていない。だからといって、今さら女を演じられるわけでも子供を作れるわけでもない。別れた夫を引き付けるものが何もない。揺れた心はいつになっても落ち着かない。そうだ、何も考えず、目をつぶればよい。「一日、一日、何も考えずに生きよう、そうすれば安らかに老いを迎えられる」と自分に言い聞かせてアパートを出た。

雨は止まない。風も少しある。
駅に向かう人も格段と増えた。

七時半、近くの駅に着いた。いつもよりも三十分早い。
傘をたたみ、ふと誰かが背中を突っついたように感じたので振り向いた。すぐに気のせいだと分かった。
まるで砂糖に群がるアリの大群のように人が押し寄せてくる。その数の多さに圧倒された。いつもの時間の倍近くいるだろう。三十分の差でこんなにも違うのかと呆れた。同時にこんなにたくさんの人がいるのに、どこにも自分とつながっている人がどこにもいないことに気付き、何か大きな穴に突き落とされたように感じた。ずっと自分に言い聞かせてきた。独りが気楽でいいと。でも、それが間違いだとあらためて思い知らされ、涙がこぼれてきた。だが、通り過ぎる人は誰も気かない。
ぼっとしていたら、「何、突っ立っている。邪魔だ」と怒鳴られ、慌てて歩き出した。人の波に押されるように電車に乗った。

雨が電車の窓を叩く。
雷が鳴る。ふと、幼い頃、雨の降る中を一人で走って家に帰ったときのことを思い出した。冷たい雨、濡れて帰っても母が温かく迎えてくれた。だが、今は迎えてくれる人はいない。
母親と兄弟は東京から遠く離れた秋田に暮らしている。母親は兄夫婦と秋田市内で同居している。弟も結婚して隣町に住んでいる。戻っても彼女が入り込む隙などどこにもない。むしろ子もなく離婚した妹を、口にこそしないが、迷惑な存在だと思っていることは容易に分かった。だから、もう三年近くも帰省していない。誰かが死なない限りは帰ることはないと覚悟していた。離婚したとき、独りで生きていく覚悟を決めたはずだった。
独りで生きていく覚悟は簡単に揺らぎ、誰かとつながりたいと思う。特にこんなひどい雨の日は、誰かと……。