<未完成>
1
水着は昼に着るものだ――。
ぼんやりと考えながら、ミコはコンクリートの非常階段を上っている。
夜に着るビキニは、どこか不純だ。
こんな風に面積の小さい水着は特にそうだ。
湿度の高い真夏の夜気に混じって、東京湾から油っぽい海の匂いがする。川と海が混じるところに屋形船が何艘も漂っていて、街の灯を受けてほんのりとマゼンタ色になった雲の中では、羽田空港に着陸態勢になった飛行機が赤色灯を点滅させながらゆったりと旋回している。
水着の上に羽織っている――このバスローブも変だ。
でも、これがないと絶対に困るし、代わりになる物も急には思い浮かばない。マントもポンチョもレインコートも大きめのバスタオルも、全部何かが間違えている。オーバーサイズのYシャツみたいな普通の服じゃもっと変だし、後々脱ぐ時のことを考えると、それは公開セクハラ以外の何物でもない。そもそも、もしバスローブよりましな物があったら、誰かがとっくの昔に使っているだろう。
開けっ放しになったドアを潜って、芝浦にある古い倉庫の屋上に出た。
エアコンの室外機が、一列に並んで唸っている。その横に置かれた小型の発電機が、まるで巨人達に演説する独裁者のように早口なエンジン音を響かせている。足元を這うケーブルを辿り、ひらけた場所に向かう。スタイリストが用意した靴に履き替えて、ミコはまた思う。
――水着にハイヒール。
「よしっ、じゃ、まず後ろ向きに立って足をバーンと肩幅より広いぐらいに開いて上半身でカメラの方にこんな感じでくるっと振り返ってさあ。目線はレンズの真ん中。笑顔じゃなくてかっこいい感じで。じゃあ、いこっか」
朝八時に撮影を始めてから十二時間が経った今でも、この白髪頭に黒縁の大きな丸眼鏡をかけた有名カメラマンは元気なままだ。演出的な狙いなのかストロボは使わず、普段はミュージックビデオやテレビCMの照明をしているスタッフが、彼の手足のように熱帯夜の屋上を動き回っている。
「はい」と応えて、ミコは後ろ向きになった。
現場担当マネージャーの吉村弥生が、背後からそっと近付いて来る。先輩マネージャーに叱られてばかりいる彼女はまだ入社二年目で、社長も社員も所属タレントも女ばかりの事務所の中で、日毎に存在感を失くしている。頑張ってね、と耳元で囁きながら両肩に手を掛け、吉村が離れていく。その動きと同時に、ミコは水着とハイヒールだけにされている。
バスローブを超えるものは、もう考えられない。
「よしっ、じゃ、髪直したらテスト撮るよ」
都会の夜が、目の前に広がっている。複雑な高架になった高速道路の先に東京タワーが見える。ヘアメイクが毛先を直し離れていく間、ミコはいったん目の前の世界を意識から遠ざけた。
カメラマンの意識を探るために。
――タワー。
――高速道路を流れる赤いテールランプ。
――カメラを責めているような、つんとした表情。
――体の左側に、青白い光を受けている。
あの光が、これか。
意識を自分に戻して目の端で見ると、照明スタッフの一人が両手に剥き出しの蛍光灯を持って構えている。一本を天に、もう一本を地面に向けたその姿は、スターウォーズのワンシーンを真似ているようにぴたりと固定されたまま動かず、IRON MAIDENと書かれたグレーのTシャツの脇には、悪魔の耳を逆さまにしたような汗染みが広がっている。小太りの腹だけが呼吸に合わせて収縮し、その臍あたりにはオーストラリア大陸に似た形の、別の汗染みが浮かんでいる。
「よしっ、じゃ、テスト撮るよ。――はいっ」
ミコが振り返ると、狙い撃ちされたようにシャッターが切られる。
パソコンで画像を確認し終えたカメラマンから指示が出て、二刀流の照明スタッフがほんの半歩、ライトセーバーを構える位置を変える。吉村はこのタイミングで一度バスローブを着させるべきかどうかを考えながら答えを出せず、撮影風景の一部になっている。
「ミコちゃんいいね。こんな感じで撮っていこう。もうちょっとだけ表情強くてもいいかな。あと、次から風入れよう」
カメラマンの言葉と一緒に、ミコの頭に〈その写真〉が浮かんだ。左半身に当たった光の面積が少しだけ小さくなり、髪先が風に靡いたまま止まっている。
「お願いします」
ミコは後ろ向きになり、立ち位置のバミリに爪先を合わせた。
有名無名に関わらず、カメラマンはミコの中で二種類に分けられる。撮りたい写真のイメージが頭の中に、あるか、ないかだ。高校の卒業式を終えて三月の終わりに上京したばかりの新人が、そんな生意気なことを口に出せるはずがない。そう考えていることを悟られてもいけない。
けれど――それは見えている。
風を受けた自分の髪の広がりが、はっきりと共有出来ている。
蛍光灯を構えた照明スタッフの足元にヘアメイクが片膝立ちになり、腰だめに送風用のハンドブロワーを構える。ヘアメイクの辻川絵美里は所属するモデル事務所が信頼する外部スタッフで、ミコが東京に来てからの短期間で知り合った数少ない仲間の一人だ。アシスタントから一本立ちして間もない絵美里は二十歳前後にしか見えない二十六歳で、三歳の女の子を一人で育てている。髪をシニヨンにした絵美里が片目を瞑って狙いを定め、ブロワーのスイッチに人差し指を掛ける。落ち葉を飛ばしたりするための無骨な道具がSF光線銃のように見えてきて、ミコは込み上げる笑いを堪えた。仕事熱心で裏表のない絵美里は、ミコが最初に出会ったカッコいい大人だ。
不意に、絵美里の意識が見えた。
彼女が狙っている髪のポイントが、ミコには、ぴたりと共有出来た。まるで自分が光線銃のスコープを覗いて、もう一人の自分を狙っているように。
都会はすごいな――こんな人がごろごろいるよ。
東京タワーに息を吹きかけて、肺の中の空気を新しくした。稲の匂いも蛙の鳴き声もしない夜に含まれていることを、ミコは心から嬉しく思う。
もう迷わない。
見えるものはしょうがない。
「よしっ、じゃあ、撮ってこう。――はいっ」
見えるから、こんな田舎者でもなんとかやれているんだ。
「よしもう一回。後ろ向いて――はいっ」
狡くても見える通りにやればいい。もし見えなかった時は、見えた時の経験を踏まえてやればいい。そのうち慣れて、きっといろいろなことが出来るようになる。
「いいね。そう。もう一回――はいっ」
幼い頃から何度も祖母に言われた言葉が、ミコの思考に入り込む。
〈ミコちゃん、このことは絶対に人に言っちゃ駄目だよ。頭がおかしいと思われるからね〉
「よしっ、いいよ。もう一回行こう。次はもっと大人っぽい感じで」
絵美里の意識が、乱れた髪を直したがっている。ミコは振り返りながら、頬にかかった髪を自分で払った。その動きを狙っていたようなタイミングでまたシャッターが切られ、絵美里の不安は弾けるように消えた。この二人がして欲しいことが、同時に分かる。こんなことは、今までになかった。集中すればするほど、感覚が繊細になって来る。ミコは自分の心臓の動きが、心地良い速さにテンポアップしているのを感じている。
誰にも言わない。
こんなこと――誰にも言えるはずがない。
水着は昼に着るものだ――。
ぼんやりと考えながら、ミコはコンクリートの非常階段を上っている。
夜に着るビキニは、どこか不純だ。
こんな風に面積の小さい水着は特にそうだ。
湿度の高い真夏の夜気に混じって、東京湾から油っぽい海の匂いがする。川と海が混じるところに屋形船が何艘も漂っていて、街の灯を受けてほんのりとマゼンタ色になった雲の中では、羽田空港に着陸態勢になった飛行機が赤色灯を点滅させながらゆったりと旋回している。
水着の上に羽織っている――このバスローブも変だ。
でも、これがないと絶対に困るし、代わりになる物も急には思い浮かばない。マントもポンチョもレインコートも大きめのバスタオルも、全部何かが間違えている。オーバーサイズのYシャツみたいな普通の服じゃもっと変だし、後々脱ぐ時のことを考えると、それは公開セクハラ以外の何物でもない。そもそも、もしバスローブよりましな物があったら、誰かがとっくの昔に使っているだろう。
開けっ放しになったドアを潜って、芝浦にある古い倉庫の屋上に出た。
エアコンの室外機が、一列に並んで唸っている。その横に置かれた小型の発電機が、まるで巨人達に演説する独裁者のように早口なエンジン音を響かせている。足元を這うケーブルを辿り、ひらけた場所に向かう。スタイリストが用意した靴に履き替えて、ミコはまた思う。
――水着にハイヒール。
「よしっ、じゃ、まず後ろ向きに立って足をバーンと肩幅より広いぐらいに開いて上半身でカメラの方にこんな感じでくるっと振り返ってさあ。目線はレンズの真ん中。笑顔じゃなくてかっこいい感じで。じゃあ、いこっか」
朝八時に撮影を始めてから十二時間が経った今でも、この白髪頭に黒縁の大きな丸眼鏡をかけた有名カメラマンは元気なままだ。演出的な狙いなのかストロボは使わず、普段はミュージックビデオやテレビCMの照明をしているスタッフが、彼の手足のように熱帯夜の屋上を動き回っている。
「はい」と応えて、ミコは後ろ向きになった。
現場担当マネージャーの吉村弥生が、背後からそっと近付いて来る。先輩マネージャーに叱られてばかりいる彼女はまだ入社二年目で、社長も社員も所属タレントも女ばかりの事務所の中で、日毎に存在感を失くしている。頑張ってね、と耳元で囁きながら両肩に手を掛け、吉村が離れていく。その動きと同時に、ミコは水着とハイヒールだけにされている。
バスローブを超えるものは、もう考えられない。
「よしっ、じゃ、髪直したらテスト撮るよ」
都会の夜が、目の前に広がっている。複雑な高架になった高速道路の先に東京タワーが見える。ヘアメイクが毛先を直し離れていく間、ミコはいったん目の前の世界を意識から遠ざけた。
カメラマンの意識を探るために。
――タワー。
――高速道路を流れる赤いテールランプ。
――カメラを責めているような、つんとした表情。
――体の左側に、青白い光を受けている。
あの光が、これか。
意識を自分に戻して目の端で見ると、照明スタッフの一人が両手に剥き出しの蛍光灯を持って構えている。一本を天に、もう一本を地面に向けたその姿は、スターウォーズのワンシーンを真似ているようにぴたりと固定されたまま動かず、IRON MAIDENと書かれたグレーのTシャツの脇には、悪魔の耳を逆さまにしたような汗染みが広がっている。小太りの腹だけが呼吸に合わせて収縮し、その臍あたりにはオーストラリア大陸に似た形の、別の汗染みが浮かんでいる。
「よしっ、じゃ、テスト撮るよ。――はいっ」
ミコが振り返ると、狙い撃ちされたようにシャッターが切られる。
パソコンで画像を確認し終えたカメラマンから指示が出て、二刀流の照明スタッフがほんの半歩、ライトセーバーを構える位置を変える。吉村はこのタイミングで一度バスローブを着させるべきかどうかを考えながら答えを出せず、撮影風景の一部になっている。
「ミコちゃんいいね。こんな感じで撮っていこう。もうちょっとだけ表情強くてもいいかな。あと、次から風入れよう」
カメラマンの言葉と一緒に、ミコの頭に〈その写真〉が浮かんだ。左半身に当たった光の面積が少しだけ小さくなり、髪先が風に靡いたまま止まっている。
「お願いします」
ミコは後ろ向きになり、立ち位置のバミリに爪先を合わせた。
有名無名に関わらず、カメラマンはミコの中で二種類に分けられる。撮りたい写真のイメージが頭の中に、あるか、ないかだ。高校の卒業式を終えて三月の終わりに上京したばかりの新人が、そんな生意気なことを口に出せるはずがない。そう考えていることを悟られてもいけない。
けれど――それは見えている。
風を受けた自分の髪の広がりが、はっきりと共有出来ている。
蛍光灯を構えた照明スタッフの足元にヘアメイクが片膝立ちになり、腰だめに送風用のハンドブロワーを構える。ヘアメイクの辻川絵美里は所属するモデル事務所が信頼する外部スタッフで、ミコが東京に来てからの短期間で知り合った数少ない仲間の一人だ。アシスタントから一本立ちして間もない絵美里は二十歳前後にしか見えない二十六歳で、三歳の女の子を一人で育てている。髪をシニヨンにした絵美里が片目を瞑って狙いを定め、ブロワーのスイッチに人差し指を掛ける。落ち葉を飛ばしたりするための無骨な道具がSF光線銃のように見えてきて、ミコは込み上げる笑いを堪えた。仕事熱心で裏表のない絵美里は、ミコが最初に出会ったカッコいい大人だ。
不意に、絵美里の意識が見えた。
彼女が狙っている髪のポイントが、ミコには、ぴたりと共有出来た。まるで自分が光線銃のスコープを覗いて、もう一人の自分を狙っているように。
都会はすごいな――こんな人がごろごろいるよ。
東京タワーに息を吹きかけて、肺の中の空気を新しくした。稲の匂いも蛙の鳴き声もしない夜に含まれていることを、ミコは心から嬉しく思う。
もう迷わない。
見えるものはしょうがない。
「よしっ、じゃあ、撮ってこう。――はいっ」
見えるから、こんな田舎者でもなんとかやれているんだ。
「よしもう一回。後ろ向いて――はいっ」
狡くても見える通りにやればいい。もし見えなかった時は、見えた時の経験を踏まえてやればいい。そのうち慣れて、きっといろいろなことが出来るようになる。
「いいね。そう。もう一回――はいっ」
幼い頃から何度も祖母に言われた言葉が、ミコの思考に入り込む。
〈ミコちゃん、このことは絶対に人に言っちゃ駄目だよ。頭がおかしいと思われるからね〉
「よしっ、いいよ。もう一回行こう。次はもっと大人っぽい感じで」
絵美里の意識が、乱れた髪を直したがっている。ミコは振り返りながら、頬にかかった髪を自分で払った。その動きを狙っていたようなタイミングでまたシャッターが切られ、絵美里の不安は弾けるように消えた。この二人がして欲しいことが、同時に分かる。こんなことは、今までになかった。集中すればするほど、感覚が繊細になって来る。ミコは自分の心臓の動きが、心地良い速さにテンポアップしているのを感じている。
誰にも言わない。
こんなこと――誰にも言えるはずがない。