あなたを見ていたら
「ごめんなさい。余計なことを聞いて。この町のルールは余計な詮索しないよね。余計な詮索なんか、無意味よね。私もそうだけど、たいていの年寄は死ぬためだけに生きている」
「死ぬためだけに生きている。面白い表現ですね。妻に死なれたとき、死について考えました。考えれば考えるほど分からない。実に単純で明快な事実なのに。生と死は別世界です。でも、どんなに考えても、答えが見出せないと分かったとき、考えるのを止めました。その方が楽だから」とケンタロウは自嘲気味に笑った。
「この町で生まれたはずじゃないのに、ずっと昔から、ここに居るような気がする。古い、汚らしい家が密集しているから、口の悪い連中は貧民窟で言うけと、暮してみれば、案外いい所だと思わない」
「僕もそう思っています。ここだと恰好を気にして生きる必要はない。ところで、ミサさんは、若いころ、美人だったんですね?」
「いやだ、どうしてそんなことを聞くの」
「あの絵、ミサさんでしょ? とてもきれいだ」
壁の若い女性を描いた絵が飾られているのである。
「そう、私よ。昔の恋人が描いてくれたの」
「とても上手い。僕も画家になろうと思っていた時があったから、絵を観る目はありますからわかります。とても上手い。それにあなた気品があって、とても美しい」
「彼は有名になる前に交通事故で死んだの。今でも彼のことが好きで忘れられない」
ミサが恋した画家ワタルの話をした。
――山間の村に育ったワタルにとって、海は単なる海ではなかった。貧しいかった少年時代、貧しさから離れたいという夢があった。その夢となぜか青い海が重なっていたのだ。
ある年の夏、ワタルは山を越えて海にきた。山を越えると、まるで女性の腕のような優雅でゆるやかな曲線の浜辺が展開している。その先に青い海がある。感動した。青い空を自由に羽ばたく白い海鳥。海から涼しい風が吹きよせて、汗が流れ出る額を拭った。
ワタルはずっと海をみていた。日も暮れようとするときか、白い服を着た少女。彼の目の前を通り過ぎようとした。すると、麦藁帽子が風に飛ばされ、偶然にもワタルの手の中に落ちた。そのときの少女がミサだった。それから燃えるような恋をした。だが、結婚を誓い合ったのに、結婚する前に海で溺れて死んだ――
「とても愛していたんですね」とケンタロウが言うと、
「からかうのは止してよ。もう遠い昔よ。でも、あの時が一番良かった。実を言うと、あなたは彼にとても似ている顔をしていたの。だからあの公園で話しかけたのよ。でも、これもきっと何かの縁よね。最近、特に彼に会いたいと思いが募っていたの。きっと神様の巡り合わせよ」
朧月夜の晩、突然、ミサが手料理をもってケンタロウを訪ねてきた。
食事の後、二人で日本酒を飲んだ。
ミサは酔い過ぎたのか、唐突に「抱いて」と呟いた。
驚いたケンタロウがミサを見ると、
「あなたを見ていたら、遠い昔を思い出したの」と涙を浮かべていた。
「ほんとうにワタルにそっくり。過ぎた日のことをあれこれと思い出したら、初めてワタルに抱かれた夜のことが蘇ったの。年甲斐もなく、変よね?」
ケンタロウは答えなかった。ただ絵の中の美しい女性を思い浮かべ、寄りかかろうとする老婆の肩を抱いた。それが答えだった。