あなたを見ていたら
『あなたを見ていたら』
春に職を失ったケンタロウが、道に迷いA園に来たのは、ちょうど一週間前のこと。それから、晴れた日には、この公園によく来るようになった。知り合いもいなくて、誰にも気兼ねすることなくくつろげるところが気に入っている。
A公園はN市の中央のビジネス街のビルの谷間にある小さな公園で、まるで忘れられたような場所である。
何かがあるわけではない。中央に休むためのコンクリートテーブルと椅子の組み合わせが幾つかあって、その周りに小さな花壇がある。公園を木立がまるで塀のように囲み、さらに高いビルが囲んでいる。
ケンタロウは公園で本を読んだり、あるいは頭に浮かんだイメージをスケッチブックに描いたりする。ある日、幾つかのことに気づいた。昼近くにもなると、自分と同じように仕事も無くした人や行き場も金もない年寄りがどこからもなく公園に集うのだ。何もすることがない若者はみな無口でぼんやりとしている。反対に老人たちには会話はある。だが、その多くは、誰かが死んだとか、体の具合が悪いとか、どちらかといえば、後ろ向きの暗い話が多い。
その日は、ケンタロウは春の澄んだ空をぼんやりと見ていた。どうやって春の空を描こうと考えながら。すると、昼過ぎのことである。品の良い顔立ちをした老女が突然ケンタロウに話しかけた。
「隣に座っていいかしら?」
「どうぞ、空いていますので」
「私はミサと言うのよ。お名前は?」
「ケンタロウと言います」
「変な質問していいかしら?」
「どうぞ、かまいませんよ」
「こんな昼間から、こんな所にいていいの?」
「会社を辞めたんです?」とケンタロウは済まなそうに答える。
「会社を辞めてどのくらい?」
「半年です。仕事がなかなか見つかなくて」
「そうなの。お幾つ?」
「三十五です」
「ずいぶんと若いわね。私はこれでも中学の先生をしていたけど、定年退職で辞めたの。働いていたのはもう三年前のことね」とミサは寂しそうに微笑んだ。
だが、ケンタロウは無反応だ。
「あなたは絵を描くの?」
ケンタロウの前にはスケッチブックが置いてあったのである。
「下手な横好きです」と笑った。
「下手でも何でもいいの。やりたいことがあることは」
「私は何もすることはないの。ただ猫と生きるだけ」
よく見ると、ミサの脚の上に大きな猫がいる。
「この子ね。タマというも、子猫の頃から育てたの。子どもの頃はあちこち飛び回っていたけど、今ではあまり動かないの。年老いたのね。今はいつも私のそばにいるの」
「家は近いですか?」
「すぐそこよ。すぐそこと言っても、目の前のビルを越え、大きな川を渡り、その先にある古い家やアパートがたくさんあるところよ。B町一丁目よ」
そこは老人の街とか姥捨て山と呼ばれる一角だった。若者はほとんどいない。居るのは老人と猫だけ。周りくねった路地があり、一度入り込んだら、出るに出られないところだ。
ケンタロウは驚いて、「実を言うと、僕もそこに住んでいます。最近引っ越ししてきました」
「じゃ、同じところね」とミサは嬉しそうに言った。
「いつか、ばったりと出くわすかもしれませんね」
「きっと、そうなるわ。だって、同じB町一丁目だもの」
突然、猫がケンタロウの脚の上に飛び乗った。
「あら、きっと、あなたのことを気に入ったのね。猫は、猫好きかどうか分かるのよ」とミサは笑った。
ケンタロウは猫を撫ぜた。すると嬉しそうな眼を細めた。
ミサは娘がいたという話をした。その娘と折り合いが悪くて、二十年前、娘が家を出て以来、一度も会話したことがないという。
「二十年も会話していないのよ。バカみたいでしょ。娘の何もかもが嫌いなの。娘の方も同じように私のように何もかも嫌いなの。だから顔を合わせないのが一番なの」
「僕は妻に死なれて、もう二十年になります。死んだ直後、家が火災になり、何もかもが消えてしまいました。住んでいた土地は借金を返すために売ってしまいました。もう妻と一緒に暮らしたという記録は戸籍以外どこにもありません」
「かわいそうね」と言うと、ミサは時計を見た。
「随分と話し込んでしまったようね」とミサは微笑んだ。
ケンタロウも時計を見た。
「そのようですね。一時間くらい経っています」
「帰るわよ。タマ」
そういうと、タマはミサの方に飛び移った。ミサはタマを抱えた。
数日後の夕方のことである。偶然、ケンタロウはミサと遭った。
「夕食はもう終わりました?」とミサは唐突に聞いた。
「まだです」と素直に答えた。
「今日、たくさん、作ってしまったの。一緒に食べましょう」
ケンタロウはミサの家に上がった。実にこぎれいな部屋だった。猫が窓にちょこんと座っている。
「よく落ちないものですね」
「タマはあの場所がお気に入りなの。変でしょ。落っこちそうなところや狭いところが大好きなの」
食事を終えた後、ミサはワインをグラスについだ。
ミサはやわらかな笑みを浮かべて話し始めた。
「私はガンで、治療を受けている。でも治らない。治療に飽きて、もういつでもいいから死んでもいいと思っている。それなのに、なかなか死なないのよ。人間って不思議よね。死でもいいと思っている人が死なずに、反対に死ぬのが嫌だと泣き喚いた人間があっけなく死ぬ。私はずっと神様も仏様も信じていたの。でもガン治療してから、『神様も仏様もあったものではない』と考えるようになったの。あなたは神様や仏様を信じている?」
「信じていない」とケンタロウは素直な気持ちで告白した。
「ある時、先生に『死なせてください』とお願いしたの。そしたら、先生、びっくりした顔をして言ったの。『どうしてですか? あなたみたいな人は初めてだ』と言うの。現代人は死ぬのが怖いのかしら?」
「この世に未練なくて生きている人間は存在しないと思います。経を唱えている坊主だって」
「あなたはお坊さんが嫌い?」
「好きではありません」
「私は執着するものは何もないの。変かしら?」
「どうしてですか?」
「だって、仕事はしていないし、親しい人もいない。つまり誰ともつながっていない。親族は娘一人。その娘も遠くで暮していて、もう随分会っていない。気に留める人も、気に留めてくれる人もいない。私は風船のように自由。都会という空間にふんわりと浮いて漂っている。今まで住んでいたマンションを売ってここにきた。マンションなんて、コンクリートの牢獄よ。住むところじゃない。隣同士でもろくに挨拶もしないもの。ここでは会話がる。猫も飼える。猫が鳴いても誰も文句を言わない。ここでタマとのんびり暮らしている。マンションなんかよりもずっと心地よいわ」
「僕も似たようなものです。十分といえるほどの蓄えはありませんが、だからといって急いで働く必要はない。当分無職でも生きていけるだけの蓄えはあります。それに養うべき家族も猫もいません」とケンタロウは笑った。
「私が死んだら、このタマを差し上げます。人懐っこくて、良い猫よ。ところで、絵は描いているの?」
「少しずつですけど」
「日中は何をしているの?」
ケンタロウは顔を曇らせた。
春に職を失ったケンタロウが、道に迷いA園に来たのは、ちょうど一週間前のこと。それから、晴れた日には、この公園によく来るようになった。知り合いもいなくて、誰にも気兼ねすることなくくつろげるところが気に入っている。
A公園はN市の中央のビジネス街のビルの谷間にある小さな公園で、まるで忘れられたような場所である。
何かがあるわけではない。中央に休むためのコンクリートテーブルと椅子の組み合わせが幾つかあって、その周りに小さな花壇がある。公園を木立がまるで塀のように囲み、さらに高いビルが囲んでいる。
ケンタロウは公園で本を読んだり、あるいは頭に浮かんだイメージをスケッチブックに描いたりする。ある日、幾つかのことに気づいた。昼近くにもなると、自分と同じように仕事も無くした人や行き場も金もない年寄りがどこからもなく公園に集うのだ。何もすることがない若者はみな無口でぼんやりとしている。反対に老人たちには会話はある。だが、その多くは、誰かが死んだとか、体の具合が悪いとか、どちらかといえば、後ろ向きの暗い話が多い。
その日は、ケンタロウは春の澄んだ空をぼんやりと見ていた。どうやって春の空を描こうと考えながら。すると、昼過ぎのことである。品の良い顔立ちをした老女が突然ケンタロウに話しかけた。
「隣に座っていいかしら?」
「どうぞ、空いていますので」
「私はミサと言うのよ。お名前は?」
「ケンタロウと言います」
「変な質問していいかしら?」
「どうぞ、かまいませんよ」
「こんな昼間から、こんな所にいていいの?」
「会社を辞めたんです?」とケンタロウは済まなそうに答える。
「会社を辞めてどのくらい?」
「半年です。仕事がなかなか見つかなくて」
「そうなの。お幾つ?」
「三十五です」
「ずいぶんと若いわね。私はこれでも中学の先生をしていたけど、定年退職で辞めたの。働いていたのはもう三年前のことね」とミサは寂しそうに微笑んだ。
だが、ケンタロウは無反応だ。
「あなたは絵を描くの?」
ケンタロウの前にはスケッチブックが置いてあったのである。
「下手な横好きです」と笑った。
「下手でも何でもいいの。やりたいことがあることは」
「私は何もすることはないの。ただ猫と生きるだけ」
よく見ると、ミサの脚の上に大きな猫がいる。
「この子ね。タマというも、子猫の頃から育てたの。子どもの頃はあちこち飛び回っていたけど、今ではあまり動かないの。年老いたのね。今はいつも私のそばにいるの」
「家は近いですか?」
「すぐそこよ。すぐそこと言っても、目の前のビルを越え、大きな川を渡り、その先にある古い家やアパートがたくさんあるところよ。B町一丁目よ」
そこは老人の街とか姥捨て山と呼ばれる一角だった。若者はほとんどいない。居るのは老人と猫だけ。周りくねった路地があり、一度入り込んだら、出るに出られないところだ。
ケンタロウは驚いて、「実を言うと、僕もそこに住んでいます。最近引っ越ししてきました」
「じゃ、同じところね」とミサは嬉しそうに言った。
「いつか、ばったりと出くわすかもしれませんね」
「きっと、そうなるわ。だって、同じB町一丁目だもの」
突然、猫がケンタロウの脚の上に飛び乗った。
「あら、きっと、あなたのことを気に入ったのね。猫は、猫好きかどうか分かるのよ」とミサは笑った。
ケンタロウは猫を撫ぜた。すると嬉しそうな眼を細めた。
ミサは娘がいたという話をした。その娘と折り合いが悪くて、二十年前、娘が家を出て以来、一度も会話したことがないという。
「二十年も会話していないのよ。バカみたいでしょ。娘の何もかもが嫌いなの。娘の方も同じように私のように何もかも嫌いなの。だから顔を合わせないのが一番なの」
「僕は妻に死なれて、もう二十年になります。死んだ直後、家が火災になり、何もかもが消えてしまいました。住んでいた土地は借金を返すために売ってしまいました。もう妻と一緒に暮らしたという記録は戸籍以外どこにもありません」
「かわいそうね」と言うと、ミサは時計を見た。
「随分と話し込んでしまったようね」とミサは微笑んだ。
ケンタロウも時計を見た。
「そのようですね。一時間くらい経っています」
「帰るわよ。タマ」
そういうと、タマはミサの方に飛び移った。ミサはタマを抱えた。
数日後の夕方のことである。偶然、ケンタロウはミサと遭った。
「夕食はもう終わりました?」とミサは唐突に聞いた。
「まだです」と素直に答えた。
「今日、たくさん、作ってしまったの。一緒に食べましょう」
ケンタロウはミサの家に上がった。実にこぎれいな部屋だった。猫が窓にちょこんと座っている。
「よく落ちないものですね」
「タマはあの場所がお気に入りなの。変でしょ。落っこちそうなところや狭いところが大好きなの」
食事を終えた後、ミサはワインをグラスについだ。
ミサはやわらかな笑みを浮かべて話し始めた。
「私はガンで、治療を受けている。でも治らない。治療に飽きて、もういつでもいいから死んでもいいと思っている。それなのに、なかなか死なないのよ。人間って不思議よね。死でもいいと思っている人が死なずに、反対に死ぬのが嫌だと泣き喚いた人間があっけなく死ぬ。私はずっと神様も仏様も信じていたの。でもガン治療してから、『神様も仏様もあったものではない』と考えるようになったの。あなたは神様や仏様を信じている?」
「信じていない」とケンタロウは素直な気持ちで告白した。
「ある時、先生に『死なせてください』とお願いしたの。そしたら、先生、びっくりした顔をして言ったの。『どうしてですか? あなたみたいな人は初めてだ』と言うの。現代人は死ぬのが怖いのかしら?」
「この世に未練なくて生きている人間は存在しないと思います。経を唱えている坊主だって」
「あなたはお坊さんが嫌い?」
「好きではありません」
「私は執着するものは何もないの。変かしら?」
「どうしてですか?」
「だって、仕事はしていないし、親しい人もいない。つまり誰ともつながっていない。親族は娘一人。その娘も遠くで暮していて、もう随分会っていない。気に留める人も、気に留めてくれる人もいない。私は風船のように自由。都会という空間にふんわりと浮いて漂っている。今まで住んでいたマンションを売ってここにきた。マンションなんて、コンクリートの牢獄よ。住むところじゃない。隣同士でもろくに挨拶もしないもの。ここでは会話がる。猫も飼える。猫が鳴いても誰も文句を言わない。ここでタマとのんびり暮らしている。マンションなんかよりもずっと心地よいわ」
「僕も似たようなものです。十分といえるほどの蓄えはありませんが、だからといって急いで働く必要はない。当分無職でも生きていけるだけの蓄えはあります。それに養うべき家族も猫もいません」とケンタロウは笑った。
「私が死んだら、このタマを差し上げます。人懐っこくて、良い猫よ。ところで、絵は描いているの?」
「少しずつですけど」
「日中は何をしているの?」
ケンタロウは顔を曇らせた。