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オオカミの餌食になれ

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『オオカミの餌食になれ』

「図に乗る人間が一番餌食になりやすい」とのたまうのは、詐欺師スギシタ・ヤスヒロである。捕獲するためなら、いろんな役を演じる。今回はフランス貴族の血を引くヤ実業家である。ハンサムで知的な雰囲気を醸し出す彼にはぴったりの役である。餌食となるのは、N地方政界のボスであるヤマグチ先生である。この男は無能のくせにありとあらゆることに口を挟む。また無類の美術品好きでもある。
詐欺師スギシタは、あるパーティでヤマグチ先生と知り合った。むろん、フランス貴族の血を引く実業家ゴーン伯爵として。骨董のことで話が弾んだ。
「それではヤマグチ先生、今度いい壺をお譲りしましょう」
ゴーン伯爵は骨董を安く融通することで、簡単に信頼を獲得した。安くといっても百万くらいの花瓶や絵を五十万程度で融通するのである。ただでは無いから、賄賂でも何でもない。市場価格よりも安く提供する赤字覚悟のビジネスである。これが味噌なのである。相手の目利きの良さを褒め称えて、わざと損するのである。そうすることによって、相手が近寄ってくるのをじっと待つのだ。ちょうどウサギが近寄ってくるのをじっと待つオオカミのように。その大きな口を開けて、じっと。

「新しい美術館が出来たが、目玉となるものがない」とヤマグチ先生は困った顔でゴーン伯爵に相談する。彼のいう美術館とは、国からの地域振興の補助金を使ってきたN県立美術館のことである。出来て半年も経っていないが、郊外という立地条件の悪いところに建てられたせいもあるが、あまりにも入場者が少ない。そのせいで批判する声が少なからずある。強力に推進したヤマグチ先生の責任を問う声もあり困り果てていた。もともと目玉となる美術品がないために入場者数が少ないのは織り込み済であったが、それにしても、日によっては十人足らずと極めて少ない日もある。

美術館の視察に訪れたヤマグチ先生を出迎えたのは、美術館長モリナガである。ヤマグチ先生の推薦で館長になれた人物で、その前は大学で教鞭をとっていた。たいした業績もなく、大学でくすぶっていたのを、ヤマグチ先生が館長に推挙したのである。
「なかなか立派な美術館じゃないか、モリナガ君」
「これもみな先生のお蔭です」
「でも目玉はあるかね?」
「はあ?」
「目玉だよ、人を引き付ける何かあるのかね?」
「これといったものは……ありませんが?」とモリナガが微笑みながら答えた。
「モリナガ君、目玉として、新しい絵を購入してはどうかね?」とが言った。
「そうですね……」と心許ない返事をした。
「もう県知事には話はつけてある。僕の友人でね、ゴーン伯爵という者がいるんだが、彼が絵を買わないかと言ってきているんだ。何の絵だと思う?」
 この先生は得意になると子供のような笑顔を浮かべる。実に単純な先生である。
「いったい誰の絵ですか?」
「ピカソの水彩画だよ」
「あのピカソ……てすか?」
「値段は一億だ。何でもピカソ少年時代に描いたもので、つい最近発見されたという。専門家に言わせると二億だっておかしくないそうだ」
「ゴーン伯爵という人は何者ですか?」
「今、日本とフランスで活躍している実業家だ。主に陶器や工芸品を手広く扱っている。なんでもフランス貴族の血を引いている高貴な方だ。その彼が没落した貴族からピカソの絵を購入したんだ。ゴーン伯爵は日本に実に好意的な人物でね。親善のために売ろうというんだ。どうだ、悪い話ではなかろう?」
「先生の友人は実に幅が広い。恐縮しました。でも、それが本当とすると実に画期的なことですね」
「君は僕のことを疑っているのか!」と怒った。
実力のない権力者は自分を実際以上に大きくみせるために、必要以上に怒ったりしてみせるものだ。彼はその好例である。
 モリナガは恐縮して声がふるえた。
「とんでもございません、先生!」
 
ゴーン伯爵がやって来たのは、梅雨の終わりである。出迎えたのは、ヤマグチ先生とモリナガの二人である。
ゴーン伯爵は美術館の一室でピカソの絵を二人に見せた。小さな作品で、まるでスケッチに毛が生えた程度の水彩画である。
一目見るなり、「素晴らしい絵だ」とヤマグチ先生が呟いた。
「さすがですね、ヤマグチ先生。絵が分かるでも、一目みてピカソの素晴らしさが分かる人は少ないものです」とゴーン伯爵が深く頷き、話を続ける。
「ピカソは、一八八一年、スペインで生まれ、一時期、我がフランスで過ごしました。彼の作品は実に多い、その一部がピカソ美術館で公開されています。遺族が相続税代わりに政府に納めたのです」
「日本でも相続税は高いよ!」
 ゴーン伯爵はまた深く頷き、「え、日本も! これは一種の文明病みたいなものですな」
「ピカソの水彩画は極めて数が少ないのです。彼の有名な一連の作『青の時代』の前にほんの一時期にしか描きませんでした。実をいうと、この水彩画にはおもしろいエピソードがあるのです。まあ、どんな絵にもドラマが秘められていますが……」
「どんなエピソードですが……」
 ゴーン伯爵は意味ありげにあたりを見回しおもむろに語り始めた。
「この絵を描いたのは、彼が十八の時です。燃えるような夏です。その頃、まだ無名です。近くの海岸線の街に住んでいて、家族でやってきた少女と出会ったのです。少女は黒髪で、地中海のように美しい瞳をしていた。この絵を見ればお分かりでしょが、まるでビーナスのように美しい』
 ゴーン伯爵によれば、だいたいこんな内容であろう。
……昼下がりのことである。ピカソが街外れにある小さな山で犬を連れて遊んでいた。すると、突然の雨で降ってきた。ピカソは空を観た。朝は雲一つなかったのに、いつの間にか暗雲が隙間なく埋められていた。急いで、ピカソは駆けた。山から平地につながる坂の途中で、傘をさしている少女とぶつかってしまった。傘は弾け飛んだ。傘は坂の下に落ちた。
「何をするの!」と少女が言った。
「ごめん」とピカソが謝った。
「傘を取って来てよ」
ピカソはあわてて傘を取りに行った。しばらくして、傘を取って来たピカソの顔に泥がついていた。
ピカソはつっけんどんに傘を差し出した。少女はくすって笑った。
「顔が泥だらけね」
少女は傘を受け取ると、ハンカチを取り出した。
「これで顔を拭きなさい」と言い終わると、坂の上の別荘に向かった。
  雨はさらに激しく降ってきた。ピカソはずっと見送ってきた。やがて、少女の姿は雨に消された。ピカソは少女の美しさ、愛くるしさに心を打たれた。異性に対し、生まれて、初めて不思議な気持ちになったのである。
翌日、昨日の雨とは打って変わって晴れた。夏の強い日射しが朝から照りつけていた。 奇遇にもピカソはその少女の訪れるはめになった。ピカソはアルバイトをしていて、大きな屋敷に配達物を届けたのである。玄関の扉を開け出て来たのは、昨日の少女だった。それから二人は燃えるような恋に落ちた。……

「その娘の肖像画がこれですよ。よく観て下さい。この頃のピカソの絵の特徴というのは、緑です。『青の時代』の絵が有名ですが、その前の鮮やかな緑の時代があったのです。まるで生命が弾けるような光輝く緑、早春の風のように清々しい緑……」
作品名:オオカミの餌食になれ 作家名:楡井英夫