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満たされぬ心

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『満たされぬ心』

かんかんと強い日が差す七月のある日の午後、ミーナは大学時代の友達であるトモエと喫茶店で会った。
トモエには主婦で三歳の子がいる。普通の生活を送っている。何の才能もないことを本人も自覚していて、早くから専業主婦に憧れ、二十三歳のときに今の旦那と結婚し、子供を作った。ミーナに会うと、必ず今が一番幸せと言う。おそらく七十年後に会っても、同じように今が幸せだと言う確信をミーナは抱いている。
「ミーナって、不思議よね」
「何か?」とミーナが尋ねた。
「男の匂いを何も感じさせないもの」
「おかしい?」
「おかしいわよ。もう三十でしょ? 一人や二人くらい男がいてもいいはずよ」
 ミーナは盛りがついたメス犬のように尻尾を振ってオス犬にすり寄るような女にだけはなりたいと思わなかったので、男に媚びるような化粧や服装もしなかった。また男に依存しているような女にも見られたくなかったので、好きな男のことを喋ったりはしない。だが、本当はセックス依存症ともいえるほど、男なしでは生きていけない体になっていた。
「それが残念なことにいないの」とミーナは微笑んだ。
 男の気を引くような化粧や服装しないだけで、清楚な顔立ちとは反対に、裸のミーナはリンゴのような美しい乳房とくびれがはっきりした腰をしていて、さらに手足がすらっと伸びている。たいていの男なら裸体のミーナを見たら、思わず飛びつきたくなるだろう。
「そんなに歴史学が面白い?」
 ミーナは最近大学の非常勤講師を辞めたという話をトモエにはしていない。たぶん、これからもしないと思っている。
ミーナが眉をひそめた。
「ごめんね、悪気はないの」
「いいわ、気にしないから」
ミーナは変なところが尖っている。気にしていることを触られると過剰に反応してしまう癖がある。ある人はそれを感受性が強い証拠だというが。
「でも、本多君と結婚すると思っていたわ」
 本田君というのは、同じサークル活動していた同級生である。周りは親しいと思っていたようだが、ミーナはさほど気にかけていなかった。誰にも愛想が良かったが、それだけの男で、男の持つオスの匂いを全く感じさせなかったのも、ミーナが気にしなかった大きな原因である。
「何にもなかったわよ」とミーナは嘘をついた。
「じゃあ、もう一つ聞いていい?」と友達はミーナの顔を覗き込んだ。
ミーナはうなずいた。
「怒らないでね」
ミーナはもう一度、うなずいた。
「田村教授と何か関係があった?」
「関係って、どういう意味?」
「決まっているでしょ、男と女の関係よ」とトモエさりげなく顔をそらした。
トモエはいつもこうだった。何か重大なことを聞くときは、興味がさほどなさそうに振る舞うのだ。
田村浩一教授は西北大学教授彼であり、ミーナの卒論を指導した教授であった。彼は西洋史の泰斗といわれている。日本人にしては珍しくロシア語、フランス語、英語、ドイツ語を自由に操ることができ、その結果、他国の研究成果をいち早く知りえる立場にあった。それを学会にアナウンスするだけでも、言語の壁がある日本では存在意義があった。また、彼は旧帝国大学を出て、その学閥の勢力にうまく乗り、現在の地位を得ている。しかし、それだけのことだった。後は何もない。そんな男にミーナは身も心も捧げ五年という歳月が過ぎたが、結局、非常勤講師というささやかな地位を与えられ、月に四、五回抱かれるという都合の良い愛人役をやらされただけであった。実にちっぽけで単調でつまらない生活に飽き、つい最近、ミーナの方から別れた。
トモエが続けて言う。
「日本語を含め、五か国語を自由に操り、テニスが出来て、ハンサムで、わずか三十才で助教授になった田村浩一。確か、まだ五十代の半ば、白髪でハンサム、すらっと背が伸びていて、優しく語りかけた……女子学生の憧れだったわ」
トモエはうっとりとした表情を浮かべる。だが、トモエは田村の輝かしい仮面の下にある素顔を知らない。知的に見えるが、実をいうと性欲の虜となった獣に過ぎない。あちこちで女を口説いて自分のものにする。飽きると簡単にぽいと捨てる。ミーナと五年も続いたのは、奇跡と言ってもよかったが、一つはミーナとの相性が抜群に良かったせいである。だが、そればかりでなく、ミーナが助手として類まれな才能を発揮し身の回りの世話を焼いてくれたので、田村は手放せなかったのである。
「ミーナ、聞いているの? 何だか虚ろな顔をして、どうしたの?」
ミーナは田村教授によって地方大学に飛ばされた男を思い出していたのである。彼の名は西村隆。偏屈な男であったが、同時に恐ろしく独創的な考えを持っていた。西村の独創的な考えを田村が無断で自分のものの如く論文で発表したために大喧嘩となったが、西村が敗れて地方に飛ばされたのである。送別会を内輪で開いた時、西村は酔った勢いでミーナに囁き忠告した。「田村は泥棒だ。いや、泥棒より質が悪い。他人の成果をうまくつなぎあわせて論文をつくる天才だが、もっとも大切な独創性を欠落している。ちょうど器の立派な花瓶の類に似ている。花瓶は花を活けてこそ価値があるもの。あの男の持つ文章作成能力、語学能力、話術はみんなその花瓶みたいなものだ。でも、肝心の花がない。中心部が全く空っぽ。ミーナ、あんな下らない男の尻を追っ掛けても一文の価値もないぞ」と。なぜ、あの時、西村の言う通りにしなかったのか。どんなに悔やんでも五年という歳月は戻らない。そのどうしょうもない事実がミーナの心を曇らせた。
 じっと見つめられていることに気づいたミーナは、慌てて「聞いているわよ」と答えた。
「ミーナは本当に結婚をしないの? 寂しくないの?」
「寂しい?  結婚しないと寂しいの?」
寂しい、確かに寂しい。それは真実だ。しかし、それが何であるのか、ミーナには分からなかった。心の寂しさに気づいたのは、ずっと前からあった。学問を一生懸命やっても、その上を越える者がいる。そういった競争みたいなこと自体、虚しさを覚えるようになった。女は子供を産んで育ててこそ一人前になれると繰り返し結婚を勧めた母が昨年の春に亡くなった。そのこともいっそう、彼女の心を乱していた。結婚に見向きもしなかったのは、ありふれた幸せを執拗に求める母への反発があったのだが、今はその反発すべき壁も今もない。

ミーナは田村教授と別れると同時に大学の研究室も去った。
その数か月後、知人の紹介である有名な画商のところで働くことになった。画商の名は東山徹、四十五歳。年から年中スポーツばかりしているため肉体は締まっている。どこか野性を感じさせる精悍な顔つきで、一見するとエネルギッシュな男を連想させる。ミーナはこういった男はあまり好みではなかったが、東山が一方的にミーナに惚れてしまい。執拗にくどいた。ミーナもちょうど性愛というものに渇いていたので口説かれたふりを演じて誘いに乗った。初秋の涼しい風が吹くころ、田村の別荘に泊まることになった。別荘は京都の郊外、山の麓にある。
作品名:満たされぬ心 作家名:楡井英夫