猿芝居も悪くはない
『猿芝居も悪くはない』
ミサとは二十年来の付き合いである。一時、恋愛関係になりそうだというところまでは行ったが、最後の一線を越えることができなかった。それ以来つかず離れずの関係が続いている。
厳格な家庭に育ったミサは、大人になり独立すると、厳しく育てられた反動からか、自由奔放に恋を繰り返していた。だが、もう四十である。さすがに若い頃のようにいかない。最近は浮いた話をとんと聞いたことがない。そのせいか、ときどき週末に訪ねてきては、夜遅くまで、あれこれと話をする。きっと、自由な時間を持てあましているのだろう。
冬の夜、いつものようにミサがやって来た。珍しくワインの瓶を携えて。
チーズをかじりながら、ワインを飲みあれこれとたわいのないことを話しているうちに、夜が更けていくのが恒例である。その日もそうだった。時計の針が十時をさそうがというとき、酔っぱらったミサが唐突に聞いた。
「ユウスケは結婚しないの?」
「どうして、そんなことを聞く?」
「何となく、結婚しそうに見えないから」
「どういうことだ?」
「何となく、男という感じがしないの。ずっと前から気づいていたけど」
「同じようなことを言われたことがある」
「同じことって?」とミサは言った。
「お前は結婚できないって」
「いつのこと?」
「ずいぶん前だ。シンガポールに出張したときだ。日本人のバイヤーがいてね。彼に結婚できないと言われた。彼とは、出張する度、飲んだり、遊んだりする仲だ」
「シンガポールに行ったことは知っていたけど、詳しく聞いたことがない。聞かせてよ」
「面白くないけど、聞くか?」
「時間はたっぷりあるわ。それにこの雪、寒いときに暑い国の話を聞くのも一興ね」とミサは微笑んだ。
酔いに任せて、遠い昔のシンガポールを旅したときのことをだらだらと話をした。
夜、シンガポール空港に着く。空港のロビーを出ると湿度の高い熱気が襲ってくる。しばらくすると、身体じゅうから汗が滝のように流れてくる。風はほとんどない。まるでサウナに入ったような蒸し暑さ。
空港を出ると、ホテルに向かうバスが既に待っていた。乗り込むとバスがすぐに発車した。過ぎる夜景を眺めながら暇つぶしをした。東京と似ているようで、どこか違う風景に異国の地に来たという時間が少しずつ湧いてきた。
翌朝、十四階のテラスから、外を眺めた。入江とその先に群がる島々が一望できる。入江にひっきりなしに入ってくる船の群れ。入江には、常時、二十から三十位の船がいるように見えた。そのせいか、入江は実に狭く感じられた。入江の彼方には、小さな島の群れと日本の夏を思わせるような白い雲が浮かんでいる。
ホテルでゆっくりと朝食をとった後、街を散策。
美しく整備された街並みは、その人工的な美しさゆえに非人間的なものさえ感じさせるが、街は驚くほど多種の熱帯植物に溢れている。
カフェで行き交う人を観察する。いろんな人たちが行き交う。民族的な分類からいえば、シンガポール人の多くは中国系。彼らはよく喋る。手を使い、表情を少し大げさ。よく喋る。いや彼らに限らず、インド人だって、マレー人だって、実によく喋る。日本人だってここにいれば例外ではない。熱帯の開放的な雰囲気がそうさせるのかもしれない。
その後、ホテルに戻り、レストランで日本人のバイヤーKと一緒に昼食をとった。品の良さそうな二十くらいのマレー系のウェイトレスが応対してくれた。彼女は顔が小さく胸は大きい。実にセクシーだ。
初老に入ったKは、「たまには、ああいう女もいいよな?」と言った。
呆れた。というのも、彼は愛する妻に、『浮気をしたら殺す』という呪文を足の裏に書かれているのだ。
「確かに良い女だが、でも、抱きたいとは思わない」と答えた。
「どうして?」と聞き返す。
「若すぎる。あれはどう見ても二十歳前後だ。俺とは歳が離れすぎている」と答えた。
「だから良いんだ。だいたい君はえり好みし過ぎる。だから君は結婚できない。いい女だと思ったら、すぐに食らいつけばいいんだ」とKは哄笑した。
その後、Kは自分の娘より若いウェイトレスと一夜の恋をしたと自慢した。
話を聞いてミサは呟いた。
「私もKと同じ意見よ。ユウスケはえり好み過ぎるとそう思う」
「人間は獣じゃないよ。メスとみれば見境なくセックスするような真似はできない」
ミサは「人間も鶏も五十歩百歩よ。ただ子孫を残すために生きている。結婚して、子孫を残す。それが生物としての宿命なのよ。私なんか、いろんな男を渡り歩いたのに、良い人に恵まれず、子孫を作ることもできなかった」と悲しそうに笑った。
「お前はまだいいさ。俺はその宿命をどこかで忘れてきた」
「どこに?」
ミサがじっとのぞき込む。
「それさえ忘れた」ととぼける。
二人、顔を見合わせて笑うと、笑い声が部屋の中で寂しく響いた。
「でも、今考えると確かにあのマレー系のウェイトレスは良い女だったな」
「男はみんな若い女になびくのよね。悔しいけど」
「それがオスだよ」
「ねえ、私たちは一緒になれる?」
「無理だよ。さっきも言っただろ? 俺はオスであることを忘れたオスだって」
ミサは沈黙した。
「最近、いろんなことを考える。愛する人もいない。子供もいない。こんな自分が生きている意味なんてないと思って、無性に悲しくなったりもすることがある。でも、気を取り直して、人間は死ぬときは来たら死ぬんだし、その時が来るまでは適当に生きていればいいんじゃないかと自分自身に言い聞かせてみたりもする。美味しいものを食べれば幸せな気分にもなるし、テレビや映画を見て笑うことだってある。恋愛を妄想して楽しむことだってできる。それだけでいいんじゃないか、と自分自身に言い聞かせている。変?」
タバコを取り出して、「吸っていいか?」と聞く。
「いいよ。でも、止めると言わなかった?」
「言ったけど、止めていない。みんな、いずれか死ぬんだ。早かろうと、遅かろうと。ミサの話は少しも変ではない。でも、いろんなことを考える余裕があることは、それだけで幸せなことだと思うよ。世の中には働き詰めで、考える余裕がない人がたくさんいるから。父も母も兄もみんなそうだった。働いて、働いて、ある日、ぽっくりと死んだ。きっと何のために生まれ、何のために死ぬのかを考えずに死んだと思う」
「人は何のために生まれてくるの?」とミサが真顔で聞く。
「その質問にちゃんと答えられるのは、神様だけだろうね。人間には無理だ。生物学的には、お前が言うとおりで子孫を残すのが目的だ。それは人間に限らず、あらゆる生き物について言えることだが」
「生物学的な意味で私たちは失格ね。役割をはたしていないから」とミサは笑った。
「その通りだ。でも後悔しても始まらないぞ、過去は変えられないから。現実を肯定して生きるしかない」
「病気になった友達がいるの。見舞いに行ったとき、彼女が言っていた。とりあえず今日一日生きてみる。そうすれば次の日がくる。それを繰り返すだけだと。その中でたまに小さな楽しみや幸せがあるなら、それで十分生きている意味はあると。その話を聞いたとき、私は思わず泣いちゃった」
「涙もろくなったな」
「歳をとっただけよ」
「みんな歳をとる。この俺も」
ミサとは二十年来の付き合いである。一時、恋愛関係になりそうだというところまでは行ったが、最後の一線を越えることができなかった。それ以来つかず離れずの関係が続いている。
厳格な家庭に育ったミサは、大人になり独立すると、厳しく育てられた反動からか、自由奔放に恋を繰り返していた。だが、もう四十である。さすがに若い頃のようにいかない。最近は浮いた話をとんと聞いたことがない。そのせいか、ときどき週末に訪ねてきては、夜遅くまで、あれこれと話をする。きっと、自由な時間を持てあましているのだろう。
冬の夜、いつものようにミサがやって来た。珍しくワインの瓶を携えて。
チーズをかじりながら、ワインを飲みあれこれとたわいのないことを話しているうちに、夜が更けていくのが恒例である。その日もそうだった。時計の針が十時をさそうがというとき、酔っぱらったミサが唐突に聞いた。
「ユウスケは結婚しないの?」
「どうして、そんなことを聞く?」
「何となく、結婚しそうに見えないから」
「どういうことだ?」
「何となく、男という感じがしないの。ずっと前から気づいていたけど」
「同じようなことを言われたことがある」
「同じことって?」とミサは言った。
「お前は結婚できないって」
「いつのこと?」
「ずいぶん前だ。シンガポールに出張したときだ。日本人のバイヤーがいてね。彼に結婚できないと言われた。彼とは、出張する度、飲んだり、遊んだりする仲だ」
「シンガポールに行ったことは知っていたけど、詳しく聞いたことがない。聞かせてよ」
「面白くないけど、聞くか?」
「時間はたっぷりあるわ。それにこの雪、寒いときに暑い国の話を聞くのも一興ね」とミサは微笑んだ。
酔いに任せて、遠い昔のシンガポールを旅したときのことをだらだらと話をした。
夜、シンガポール空港に着く。空港のロビーを出ると湿度の高い熱気が襲ってくる。しばらくすると、身体じゅうから汗が滝のように流れてくる。風はほとんどない。まるでサウナに入ったような蒸し暑さ。
空港を出ると、ホテルに向かうバスが既に待っていた。乗り込むとバスがすぐに発車した。過ぎる夜景を眺めながら暇つぶしをした。東京と似ているようで、どこか違う風景に異国の地に来たという時間が少しずつ湧いてきた。
翌朝、十四階のテラスから、外を眺めた。入江とその先に群がる島々が一望できる。入江にひっきりなしに入ってくる船の群れ。入江には、常時、二十から三十位の船がいるように見えた。そのせいか、入江は実に狭く感じられた。入江の彼方には、小さな島の群れと日本の夏を思わせるような白い雲が浮かんでいる。
ホテルでゆっくりと朝食をとった後、街を散策。
美しく整備された街並みは、その人工的な美しさゆえに非人間的なものさえ感じさせるが、街は驚くほど多種の熱帯植物に溢れている。
カフェで行き交う人を観察する。いろんな人たちが行き交う。民族的な分類からいえば、シンガポール人の多くは中国系。彼らはよく喋る。手を使い、表情を少し大げさ。よく喋る。いや彼らに限らず、インド人だって、マレー人だって、実によく喋る。日本人だってここにいれば例外ではない。熱帯の開放的な雰囲気がそうさせるのかもしれない。
その後、ホテルに戻り、レストランで日本人のバイヤーKと一緒に昼食をとった。品の良さそうな二十くらいのマレー系のウェイトレスが応対してくれた。彼女は顔が小さく胸は大きい。実にセクシーだ。
初老に入ったKは、「たまには、ああいう女もいいよな?」と言った。
呆れた。というのも、彼は愛する妻に、『浮気をしたら殺す』という呪文を足の裏に書かれているのだ。
「確かに良い女だが、でも、抱きたいとは思わない」と答えた。
「どうして?」と聞き返す。
「若すぎる。あれはどう見ても二十歳前後だ。俺とは歳が離れすぎている」と答えた。
「だから良いんだ。だいたい君はえり好みし過ぎる。だから君は結婚できない。いい女だと思ったら、すぐに食らいつけばいいんだ」とKは哄笑した。
その後、Kは自分の娘より若いウェイトレスと一夜の恋をしたと自慢した。
話を聞いてミサは呟いた。
「私もKと同じ意見よ。ユウスケはえり好み過ぎるとそう思う」
「人間は獣じゃないよ。メスとみれば見境なくセックスするような真似はできない」
ミサは「人間も鶏も五十歩百歩よ。ただ子孫を残すために生きている。結婚して、子孫を残す。それが生物としての宿命なのよ。私なんか、いろんな男を渡り歩いたのに、良い人に恵まれず、子孫を作ることもできなかった」と悲しそうに笑った。
「お前はまだいいさ。俺はその宿命をどこかで忘れてきた」
「どこに?」
ミサがじっとのぞき込む。
「それさえ忘れた」ととぼける。
二人、顔を見合わせて笑うと、笑い声が部屋の中で寂しく響いた。
「でも、今考えると確かにあのマレー系のウェイトレスは良い女だったな」
「男はみんな若い女になびくのよね。悔しいけど」
「それがオスだよ」
「ねえ、私たちは一緒になれる?」
「無理だよ。さっきも言っただろ? 俺はオスであることを忘れたオスだって」
ミサは沈黙した。
「最近、いろんなことを考える。愛する人もいない。子供もいない。こんな自分が生きている意味なんてないと思って、無性に悲しくなったりもすることがある。でも、気を取り直して、人間は死ぬときは来たら死ぬんだし、その時が来るまでは適当に生きていればいいんじゃないかと自分自身に言い聞かせてみたりもする。美味しいものを食べれば幸せな気分にもなるし、テレビや映画を見て笑うことだってある。恋愛を妄想して楽しむことだってできる。それだけでいいんじゃないか、と自分自身に言い聞かせている。変?」
タバコを取り出して、「吸っていいか?」と聞く。
「いいよ。でも、止めると言わなかった?」
「言ったけど、止めていない。みんな、いずれか死ぬんだ。早かろうと、遅かろうと。ミサの話は少しも変ではない。でも、いろんなことを考える余裕があることは、それだけで幸せなことだと思うよ。世の中には働き詰めで、考える余裕がない人がたくさんいるから。父も母も兄もみんなそうだった。働いて、働いて、ある日、ぽっくりと死んだ。きっと何のために生まれ、何のために死ぬのかを考えずに死んだと思う」
「人は何のために生まれてくるの?」とミサが真顔で聞く。
「その質問にちゃんと答えられるのは、神様だけだろうね。人間には無理だ。生物学的には、お前が言うとおりで子孫を残すのが目的だ。それは人間に限らず、あらゆる生き物について言えることだが」
「生物学的な意味で私たちは失格ね。役割をはたしていないから」とミサは笑った。
「その通りだ。でも後悔しても始まらないぞ、過去は変えられないから。現実を肯定して生きるしかない」
「病気になった友達がいるの。見舞いに行ったとき、彼女が言っていた。とりあえず今日一日生きてみる。そうすれば次の日がくる。それを繰り返すだけだと。その中でたまに小さな楽しみや幸せがあるなら、それで十分生きている意味はあると。その話を聞いたとき、私は思わず泣いちゃった」
「涙もろくなったな」
「歳をとっただけよ」
「みんな歳をとる。この俺も」