月夜のオオカミ
『月夜のオオカミ』
初春のことである。
親戚の者が急になくなった。二日の葬儀が行われることになったが、オオハシ・マサオは参列するためN市に戻った。マサオはN市でも名家であるオオハシ家の当主であったため、彼が参列せざるをえなかったである。
ちょうど、長年勤めた大学を辞めたところだったので、葬儀の後は、骨休みをもかねてゆっくりと実家で休んでいた。やがて一週間が過ぎようとした。郊外にある実家ばかりに居ても詰まらなかったので、買い物をかねて久々に華やかな街中に出ることにした。
偶然にもNデパートを出たところで元妻アヤコと出会った。あまりにも予期しない出会いにマサオは立ちすくみ言葉を失った。考えてみれば、アヤコもまた彼と同じN市も生まれである。故郷に親も知り合いもいるのだから、身寄りのない東京よりずっといいに決まっている。だが、その偶然の出会いに、マサオは何か単なる偶然ではない何かを感じずにいられなかった。
アヤコは薄い青色のコートを着ていた。長い髪を後ろで束ねていた。片手に鉢植えの花を持っていた。アヤコが別れる前と少しも変わらず美しいことに、マサオは驚いた。別れてから三年が経っていたからである。
二人は狐につままれたように立ち竦んでまま互いに見つめ合った。行き交う人は不思議そうに眺めながら去るのも気にせず、しばらく沈黙したままだった。
最初に口火を切ったのはアヤコである。
「久しぶりね」
「そうだな、それはスイセンだね」
「そう、もう春ですもの。窓辺に飾ろうと思って」
マサオは出来れば誰にも会いたくはなかったのである。まして妻とは……
二人は二十年前に結婚した。十年前に、待ちに待った息子が生まれたが、五年前に事故で亡くした。それから二人の間に溝が生まれ、ぎすぎすとした関係にとなった。マサオはそんな関係に耐えられず離婚を提案した。アヤコがすんなりと受け入れたために離婚が成立した。三年前のことである。離婚してからアヤコは、故郷のN市に戻ってきていた。
「私の家に寄っていきません?」とアヤコは言った。
「止めとくよ」
「そう」とアヤコは軽く溜息をついた。
「今は何をしているの?」
「何もしていないさ」
「残念ね、あなたのような優秀な学者が何もしていないなんて」
「この国には優秀な学者が掃いて捨てるほどいる。でも、本当に優れた学者は数えるほどしかいないがね。僕も含めて、みな、優秀な仮面をつけた能無し豚に過ぎないが。いつ果てるともしらない欲望にふりまわされている餓鬼のような豚だ」
「相変わらず皮肉屋さんね」
「ねえ、喫茶店でも入ってもっと話さない?」
「いや、止めとこう。これから行くところがある」
マサオに行くところなどなかった。
「いつかまた会える?」とアヤコは聞いた。
アヤコは会った瞬間から運命的なものを感じた。たとえば神による巡りあわせだとか。神でなくて誰がこんな仕掛けを考えられるというのか。アヤコはずっと待っていた。自分を救ってくる者を。離婚してから次々と不幸が襲った。父が脳梗塞で倒れて不帰の人なった。後を追うように母も病で倒れた。今では施設に入っている。以来、実家で独り暮らしをしている。孤独で気の狂いそうな日々を過ごし、生きるために、いろんなことをした。むろん、そんな過酷な状況をマサオが知る由もない。
「さあね。分からない。神のみぞ知る」と言って、マサオは人込みの中に消えていた。ほんの一瞬の出会いだった。だが、アヤコは神の啓示のように思えた。そうだ、神がよりを戻せて言っているのだ。
マサオはN市に幾つかの土地と家を持っているのだが、今は山麓にある家で過ごしている。本を読んだり、ピアノを弾いたりして、自由気ままに過ごしていた。
運命的な出会いをした数日後の深夜のことである。美しい月が出ていた。マサオの家では、家政婦は既に眠りについていた。月明かりを頼りに、マサオはピアノを弾いていたときである。ドアが静かに開き、微かな音をたてて閉じたので、彼はドアの方を見た。
「誰だ?」
「アヤコです」
「どうやって入ってきた?」
「鍵がかかっていませんでした」
「なぜ、呼鈴を押さなかった?」
「会ってもらえないと思って」
それは当たっている。アヤコに会えば、自然と亡くなった息子を思い出してしまう。思い出せば、今でも胸が張り裂けるほど切なくなるからだ。
「明かりをつけてくれないか」
明かりに照らされたアヤコは艶やかな和服を装っていた。マサオが好きなのを知っていて、わざわざ和服姿で来たのである。そこにアヤコの強い意志が表れてのだが、マサオはその意思に気づかなかったが、惚れ惚れするような美しさに思わず息をのんだ。
「どうした?」
「どうしても会いたくて」
「もう過去の男だよ、僕は」
「ピアノを弾いていたの?」
「これしか趣味がないのは、君も知っているだろ?」
「昔とちっとも変わりませんのね。優しく愛でるようなピアノの弾き方は」
「変わったさ、万物は流転する。君もね。そうだろ?」
アヤコは何も答えなかった。彼女は窓辺に近寄った。
「月がきれい。まるでこの世のものとは思えないくらい」
「ほんの一瞬のことだ」
アヤコは振り向きマサオを見た。マサオは眼をそらしてピアノを弾き始めた。
「ねえ、なぜ私たちは別れたのかしら?」
マサオはピアノを弾く手を休めなかった。
「ねえ、答えて」
ピアノが止んだ。
「その話は止めよう。君も納得したはずだ」
「アキラ(息子)の死で苦しんでいるあなたを見ているのか辛くて」
「もう終わった話だ。止めよう。出ないと、今すぐここから出ていってもらうことになる」
「分かったわ、ごめんなさい」
突然、マサオはアヤコがいまだに色っぽいのを気になって、「好きな男がいるのか?」と聞いた。
アヤコは少し顔を赤らめた。
「図星だな。君は昔から嘘をつけない。すぐに顔に出てくる」
アヤコは答えない。
「恋人か? それともセックスフレンドか?」
「そんな下品な言い方は止めてよ!」
「僕はセックスの意義を過少評価していない。それに、女は男の味を覚えると、それを忘れることができなくなる。女は枯れるまで男を求める。ある意味、男も同じかもしれないが」
「あなたも?」
「そうかもしれない」
「じゃ、今、好きな人がいるの?」
「今はいないさ。少し前まではいた。でも、君はいるんだろ?」
「いないわ。確かに前は恋人らしき人はいたけれど、もう別れたの」
泣く必要もないのだが、ここは泣かなければと思っているうちに、アヤコの頬に一筋の涙が流れた。女は不思議な動物である。演じようと思いながら演じているうちに、それを真実であるかのように錯覚してしまうのだ。
「まあ、どうだっていいさ、僕には関係ない」
マサオは困ったような顔した。それがアヤコの笑みを誘った。
「あなたはちっとも変わってないわ、そうやって人を困らせるところなんか」
「人は変われない。誰もが」
アヤコはマサオの眼を覗きこむように見た。マサオはそうやってじっと見つめられることが苦手だったので、眼をそらした。
「この街にも、もうじき春が来るな。山には、もう雪がない」
「それで、私ね、先日、スイセンを買ったの」
「スイセンか……」
初春のことである。
親戚の者が急になくなった。二日の葬儀が行われることになったが、オオハシ・マサオは参列するためN市に戻った。マサオはN市でも名家であるオオハシ家の当主であったため、彼が参列せざるをえなかったである。
ちょうど、長年勤めた大学を辞めたところだったので、葬儀の後は、骨休みをもかねてゆっくりと実家で休んでいた。やがて一週間が過ぎようとした。郊外にある実家ばかりに居ても詰まらなかったので、買い物をかねて久々に華やかな街中に出ることにした。
偶然にもNデパートを出たところで元妻アヤコと出会った。あまりにも予期しない出会いにマサオは立ちすくみ言葉を失った。考えてみれば、アヤコもまた彼と同じN市も生まれである。故郷に親も知り合いもいるのだから、身寄りのない東京よりずっといいに決まっている。だが、その偶然の出会いに、マサオは何か単なる偶然ではない何かを感じずにいられなかった。
アヤコは薄い青色のコートを着ていた。長い髪を後ろで束ねていた。片手に鉢植えの花を持っていた。アヤコが別れる前と少しも変わらず美しいことに、マサオは驚いた。別れてから三年が経っていたからである。
二人は狐につままれたように立ち竦んでまま互いに見つめ合った。行き交う人は不思議そうに眺めながら去るのも気にせず、しばらく沈黙したままだった。
最初に口火を切ったのはアヤコである。
「久しぶりね」
「そうだな、それはスイセンだね」
「そう、もう春ですもの。窓辺に飾ろうと思って」
マサオは出来れば誰にも会いたくはなかったのである。まして妻とは……
二人は二十年前に結婚した。十年前に、待ちに待った息子が生まれたが、五年前に事故で亡くした。それから二人の間に溝が生まれ、ぎすぎすとした関係にとなった。マサオはそんな関係に耐えられず離婚を提案した。アヤコがすんなりと受け入れたために離婚が成立した。三年前のことである。離婚してからアヤコは、故郷のN市に戻ってきていた。
「私の家に寄っていきません?」とアヤコは言った。
「止めとくよ」
「そう」とアヤコは軽く溜息をついた。
「今は何をしているの?」
「何もしていないさ」
「残念ね、あなたのような優秀な学者が何もしていないなんて」
「この国には優秀な学者が掃いて捨てるほどいる。でも、本当に優れた学者は数えるほどしかいないがね。僕も含めて、みな、優秀な仮面をつけた能無し豚に過ぎないが。いつ果てるともしらない欲望にふりまわされている餓鬼のような豚だ」
「相変わらず皮肉屋さんね」
「ねえ、喫茶店でも入ってもっと話さない?」
「いや、止めとこう。これから行くところがある」
マサオに行くところなどなかった。
「いつかまた会える?」とアヤコは聞いた。
アヤコは会った瞬間から運命的なものを感じた。たとえば神による巡りあわせだとか。神でなくて誰がこんな仕掛けを考えられるというのか。アヤコはずっと待っていた。自分を救ってくる者を。離婚してから次々と不幸が襲った。父が脳梗塞で倒れて不帰の人なった。後を追うように母も病で倒れた。今では施設に入っている。以来、実家で独り暮らしをしている。孤独で気の狂いそうな日々を過ごし、生きるために、いろんなことをした。むろん、そんな過酷な状況をマサオが知る由もない。
「さあね。分からない。神のみぞ知る」と言って、マサオは人込みの中に消えていた。ほんの一瞬の出会いだった。だが、アヤコは神の啓示のように思えた。そうだ、神がよりを戻せて言っているのだ。
マサオはN市に幾つかの土地と家を持っているのだが、今は山麓にある家で過ごしている。本を読んだり、ピアノを弾いたりして、自由気ままに過ごしていた。
運命的な出会いをした数日後の深夜のことである。美しい月が出ていた。マサオの家では、家政婦は既に眠りについていた。月明かりを頼りに、マサオはピアノを弾いていたときである。ドアが静かに開き、微かな音をたてて閉じたので、彼はドアの方を見た。
「誰だ?」
「アヤコです」
「どうやって入ってきた?」
「鍵がかかっていませんでした」
「なぜ、呼鈴を押さなかった?」
「会ってもらえないと思って」
それは当たっている。アヤコに会えば、自然と亡くなった息子を思い出してしまう。思い出せば、今でも胸が張り裂けるほど切なくなるからだ。
「明かりをつけてくれないか」
明かりに照らされたアヤコは艶やかな和服を装っていた。マサオが好きなのを知っていて、わざわざ和服姿で来たのである。そこにアヤコの強い意志が表れてのだが、マサオはその意思に気づかなかったが、惚れ惚れするような美しさに思わず息をのんだ。
「どうした?」
「どうしても会いたくて」
「もう過去の男だよ、僕は」
「ピアノを弾いていたの?」
「これしか趣味がないのは、君も知っているだろ?」
「昔とちっとも変わりませんのね。優しく愛でるようなピアノの弾き方は」
「変わったさ、万物は流転する。君もね。そうだろ?」
アヤコは何も答えなかった。彼女は窓辺に近寄った。
「月がきれい。まるでこの世のものとは思えないくらい」
「ほんの一瞬のことだ」
アヤコは振り向きマサオを見た。マサオは眼をそらしてピアノを弾き始めた。
「ねえ、なぜ私たちは別れたのかしら?」
マサオはピアノを弾く手を休めなかった。
「ねえ、答えて」
ピアノが止んだ。
「その話は止めよう。君も納得したはずだ」
「アキラ(息子)の死で苦しんでいるあなたを見ているのか辛くて」
「もう終わった話だ。止めよう。出ないと、今すぐここから出ていってもらうことになる」
「分かったわ、ごめんなさい」
突然、マサオはアヤコがいまだに色っぽいのを気になって、「好きな男がいるのか?」と聞いた。
アヤコは少し顔を赤らめた。
「図星だな。君は昔から嘘をつけない。すぐに顔に出てくる」
アヤコは答えない。
「恋人か? それともセックスフレンドか?」
「そんな下品な言い方は止めてよ!」
「僕はセックスの意義を過少評価していない。それに、女は男の味を覚えると、それを忘れることができなくなる。女は枯れるまで男を求める。ある意味、男も同じかもしれないが」
「あなたも?」
「そうかもしれない」
「じゃ、今、好きな人がいるの?」
「今はいないさ。少し前まではいた。でも、君はいるんだろ?」
「いないわ。確かに前は恋人らしき人はいたけれど、もう別れたの」
泣く必要もないのだが、ここは泣かなければと思っているうちに、アヤコの頬に一筋の涙が流れた。女は不思議な動物である。演じようと思いながら演じているうちに、それを真実であるかのように錯覚してしまうのだ。
「まあ、どうだっていいさ、僕には関係ない」
マサオは困ったような顔した。それがアヤコの笑みを誘った。
「あなたはちっとも変わってないわ、そうやって人を困らせるところなんか」
「人は変われない。誰もが」
アヤコはマサオの眼を覗きこむように見た。マサオはそうやってじっと見つめられることが苦手だったので、眼をそらした。
「この街にも、もうじき春が来るな。山には、もう雪がない」
「それで、私ね、先日、スイセンを買ったの」
「スイセンか……」