蜜を運ぶ蝶
2
僕は夜を待つことにした。普段から女にはだらしないから、家に帰らなくても妻は心配しないのだが、一応電話した。
「分かりました。明日はお帰りになるのですね」
と言って、ぼくが『あぁ』と言ったと同時に切れた。
妻は女の感で何かを嗅ぎ採ったのかも知れない。僕は働く意味の半分は遊ぶためであった。その遊ぶとはギャンブルではなく女であった。
だから、教祖であるなら本気で500万円なら出しても惜しくはないと思った。でも、からかわれている気もした。『意識改革』の言葉が気になっていたのだ。彼女が約束した時間は7時以降であった。仕方なく、時間つぶしに映画を観ることにした。席にいるのは10人ほどだ。Y主演と言うのに、映画も廃れてしまった。僕はストーリーよりもYを見ているだけで満足だった。そして、僕が女にだらしなくなったのも、この女優が好きになったからだった。望んだところで手を握ることも出来ない。そんな空しさ。
映画館を出ると8時近い時間になっていた。タクシーをケイタイから呼んだ。山の中腹に灯りが観えた。ぼくは、教祖に教わった道を歩いた。その道には街灯が灯っていた。駐車場があり、車が数台駐車していた。高級車ばかりであった。僕はここまでタクシーでくればよかったと思った。かなり坂道を歩いた。昼間の建物はネオンが点いていた。『サロン ルシェルブルー』ぼくは入口に向かった。女性のドアスタッフが『いらっしゃいませ』と扉を開けた。僕は既に場違いな雰囲気を感じてしまった。昼間もそうだったのだ。ラフなシャツに運動靴、まるで場違いじゃないか。ぼくは、おびえた青年の様になっていた。
「お越しいただき嬉しいわ」
声は教祖であったが容姿は別人のように輝き美しかった。
「ご案内いたします」
ボックス席であるが4人用であった。彼女は席に腰を下ろすと名刺を差し出した。
「アサギマダラです」
「蝶じゃないかな」
「ご存知でしたか」
「名前だけは」
「海を渡るんですって、命をかけて、2千キロ、お飲み物は?」
「ビール、君たち二人も好きなのを」
「ごちそうさまです」
ぼくは持ち合わせの現金はなかったが、カードの枠が300万円なので支払いは気にしなかった。知り合いはいないとは思ったが、客層が気になっていた。みすぼらしいだけに派手に振舞いたくなった。アサギマダラを自分の席に釘づけにしたくなった。
「踊りますか」
フロアに立つとみすぼらしさ丸見えになる。ぼくは断った。
「いしきかいかく」
彼女は耳元で囁き手を引いた。183センチの僕と変わりない目線であった。
「大きいな」
「ハイヒールですから」
静かなワルツであった。
「ご契約なさいますか」
「もちろんです」
「それはよかったわ。契約されなければここの支払いが50万円ほどになりましたのよ」
「カードで支払いは済ませられる?」
「今晩はご招待ですから、サービスです」
ぼくは席に戻った。
「ここにいる女の子はすべて高校中退なんです。事情はいろいろですが、生きていくための働くところも無かったんです。でも、今は生き生きしているでしょう」
「あなたが面倒みているの」
「えぇ、このような子はいい方。外国では食べることも出来ない子が沢山いるんですから・・でも、寄付の7割は日本人のために使っているの。アサギマダラは2千キロしか飛べないから」
「身近な貧しさを救ってあげたい。ぼくも賛成だよ」
「ここに来てくれる方は賛同者なんです。個人の幸せ感なんて小さいことだと分かってくれた人たちなんです」
ぼくは酩酊しながら彼女の言葉を聞いていた。みんな家族だと思えばいいんだ。ぼくの心の中にアルコールと共にその言葉が流れ込んできた。ぼくはその夜をどのように過ごしたのか覚えていない。眼を醒ましたのはホテルであった。僕1人だった。
月曜日ぼくは小切手をアサギマダラに届けた。白装束の彼女が唇を重ねてくれた。蝶の燐粉が僕の唇に着いた。これだけでぼくは、500万円の価値を彼女から受け取った気持ちになった。
「嬉しいわ。信用なさってくれたのですね」