蜜を運ぶ蝶
1
久しぶりの休日であった。僕はひとりで幼いころよく登った山に向かった。標高300メートルほどの低い山であるから、運動靴に履き替えるだけでよかった。これといった特徴も無く、ただ、下界が見下ろせるだけであった。幼いころは、この山はとても高い山の様な気がしていた。夏の明け方に星を観るために登った時は、流星群がとても近くに観えたのだった。
稜線を歩くと、白い建物が視界に入った。2年ほど前に来た時には無かった。僕はその建物に向かって歩いた。建物に興味が湧いた。建物には看板らしいものも無く、
『ご自由にお入りください』
と書いてあるだけであった。僕は重い引き戸を開けた。戸車がキイと音を立てた。人が出てくる気配が無い。
「ごめんください」
スピーカーから
「お部屋にお入りください」
と声がした。女性の声であった。僕はなぜか女性の声で安心した。部屋の襖を開けると、正面に白装束を纏った女性が座っていた。30畳ほど畳が敷かれていた。僕は妙な所に入ってしまったと思った。宗教らしい雰囲気を感じた。全く宗教に興味が無かった。このまま『失礼しました』と帰る気持ちであったが、女性の白装束と黒髪の美しさが墨絵の様に感じていた。穏やかな気持ちにもなった。
「ここが意識改革教と知って来れれたのですね」
「いいえ、・・・白い建物を観て」
「でも、きっと、ご縁でしょう。体験されていきますか?」
「どのような」
「意識改革です」
僕は興味が湧いた。
「おいくらで、体験できますか」
「お気持ちです」
「千円でも」
「お気持ちですから結構です」
「では、お願いいたします」
すると、教祖は
「少しお待ちください」
と言い、部屋から出て行った。
別の女性が現れ
「ご案内いたします」
と言った。
僕は女性の後を歩いた。
「こちらのお部屋でお待ち下さい。暗いですがそのままで」
女性は僕が部屋に入ると戸を閉めた。明かりが消えた。同時に不安に駆られた。
「あなたは今、不安になっているでしょう」
「はい」
「暗闇だからですね」
「それと、ここがどのような所か知らないからかもしれません」
「あなたは監禁されたのですよ」
「そんな馬鹿な。身代金ですか?」
「3千万円」
「すぐに捕まりますよ。冗談なんでしょう」
「そのことはこちらで考えます」
僕は逃げてみようと戸に近づき戸を開けようとすると戸は開いた。明かりが差し込むと、僕は逃げる気持ちよりも、暗闇だった部屋を観たいと思った。声の主を観たかったのだ。あまりにも簡単に戸が開き、監禁されたという実感が湧かなかったのだ。事実としても3千万円の金ならなんとかなると思ってもいた。
暗闇だった部屋はただ板の間だけであった。その10畳ほどの部屋の中に全裸の女性が立っていた。まぎれもなく教祖の女性である。僕は
「なぜ」
と尋ねた。
「欲しいですか?この体を?」
監禁されたと脅された後で、何を言ってるのだろうかと思った。初めて観たときは、確かに見とれてしまった。でも今はとてもそんな気持ちにはなれなかった。
「欲望は突然と湧き消える。意識もそうなのです」
「何を言っているか分かりません」
「では、あなたは監禁されたら3千万円用意するつもりでしたか?」
「多分したでしょう」
「ではそのお金を寄付して下さいと言ったら?」
「それは出来ません。見ず知らずの人には」
「それが意識の変化です。わたしたちは気持ちの改革を進めているのです」
「どのような」
「まずは価値観の改革。幸せの改革」
「そうですか。あなたが裸でいては、お話がまともに聞けません。衣服を纏ってください」
「そうですね。別室にてお話しいたします」
僕は案内の女性の後をついて行った。
そこは茶室であった。教祖は白装束姿で座っていた。
穏やかな気持ちになれた。別に茶をふるまってくれるようすも無かった。
「人は経験から判断します。ですから、裸の女を観れば欲情が湧くでしょう。茶室なら気持ちが安らぐでしょう」
「たしかに」
「ですから、その常識から外れてみるのです」
「どのように」
「法律を犯すことはできませんが、変えることは出来るかもしれません。世の中の価値観を変えるのです。たとえば、偏差値を無くし誰もが好きな学校で学べる仕組み。誰もが大学に進学できる仕組み」
「そう」
「授業についていけなければ自ら退学。あるいは猛勉強する。仕事も同じ仕事は同賃金」
「何か政治家みたいですよ」
「そうかもしれません。あなたはご自分のためなら、3千万円でも使うことが出来ても、困っている他人では使いませんね。ですからそれを意識改革するのです。その半分を寄付してください。あなたは買い物をしたのです。私の心をです」
「僕の家族のために働き貯めたのですよ」
「あなたのご家族は何人ですか?」
「妻と子供3人です」
「1500万円あれば十分でしょう。100人200人の人が幸せを感じることが出来る買い物なのですから」
「そんな詐欺もありますよね」
「そうです。私は詐欺師なのです。でも、それも意識次第です。10年20年経ってみて、あなたに手紙が届けば、疑いは晴れるのですが・・・」
「過去に、あなたを信じて寄付された方はいかほどいらっしゃるのですか?」
「まだ3年ですが10人ほどの方が大口の寄付をされました。1万円単位の方は沢山おられます」
「活動報告のパンフレットのようなものは・・」
「ありません。信頼関係だけなのです」
「それでは、信用は出来ないでしょう」
「そうかも知れませんが、その分のお金も大切に使いたいのです。お金の記録はきちんとしてありますよ」
僕は振り込め詐欺で騙されるよりはましだとも思った。
「僕は強欲な男ですから、あなたが僕と寝てくれるなら、1年の契約で500万円寄付しましょう」
「あなたで3人目ですわ」
彼女は笑った。
「この館に夜来て下さい。契約したいですから」
教祖は笑みをたたえて言った.